磯田道史が「私一人ではわからない日本史の謎」について、その道の達人と日本史の論賛をした対話集が『磯田道史と日本史を語ろう』だ。磯田さんが「読者諸氏と、この至福の時間の雰囲気を、この書物でともにしたい」と話す同書より、『一刀斎夢録』の著者の浅田次郎さんと新選組三番隊隊長・斎藤一について語り合った対談の一部を抜粋して紹介する。
斎藤一の会津藩への憧れ
磯田 斎藤一による龍馬暗殺は最初の見せ場ですが、その後、斎藤は鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争に幕府軍の一員として参加していきます。甲府、白河と敗走を重ねていきますが、斎藤は会津藩が降服した後、新選組を離れて会津藩にとどまります。土方歳三らとともに蝦夷には向かわなかった。しかも、明治に入って、会津藩が潰されると、家名存続のため下北半島に設置された斗南(となみ)藩にまで同行しています。
そのような行動を斎藤にとらせたのは、会津藩の武士に対する強烈な憧れだったと思います。それは斎藤だけのものではなくて、江戸時代の武士は、西の彦根藩と北の会津藩の武士を、幕府を守るための美しい侍らしい侍と考えて仰ぎ見ていました。
会津藩が幕末に異様な輝きを放ったのは、田中玄宰(はるなか)という天才家老が「日新館」という学校を作り、幼少のころから徹底的なエリート教育を行なったからです。たとえば、当時の最高学府である江戸の昌平坂学問所には、全国から秀才が集められていましたが、そこで首席にあたる学寮の「舎長」を会津藩は四人も輩出しました。そのような藩は他にありません。
斎藤は明治維新後、会津藩大目付だった高木小十郎の娘と結婚し、息子を会津藩家老で松平容保(かたもり)に仕えた田中土佐(玄清[はるきよ])の孫娘と結婚させています。田中土佐は会津藩を会津藩たらしめた田中玄宰の子孫です。玄宰の係累になったとき、おそらく斎藤は何事かを成し遂げたと思ったでしょう。
斎藤が警視庁に入るときに出した履歴書が残っていますが、「福島県士族」と書いてある下に「旧会津藩」と自ら補足してありました。しかし、明治政府は旧会津藩士を国にとっての危険分子とみなしていました。
浅田 会津藩を滅ぼすことで、新政府ができたのだから、当然でしょう。
磯田 それがわかっているのに、斎藤一はわざわざ記入している。普通は「〇〇県士族」までしか書かれていなくて、「旧水戸藩」とか「旧岡山藩」なんて書きません。きっと、会津に召し抱えられていたことに誇りを持っていたのでしょう。たった四文字の言葉に語られなかった彼の熱い想いを感じました。
ですから、『一刀斎夢録』は足軽の息子が人を斬ることで身分体制を覆し、憧れの会津武士になる物語でもあると思いました。『壬生義士伝』『輪違屋糸里』、そして今回の『一刀斎夢録』と、浅田さんの新選組三部作は、いずれも武士ではなかった人が本物以上の武士になっていく話ですね。
2024.02.29(木)
文=磯田道史