まさに二人の間柄を象徴する場面だ。百合子は泰淳に隷属していたわけではなかった。むしろ十二歳年上の泰淳が、「男に向ってバカとは何だ」などと叱ったり小言を言ったりしながらも、百合子の天真爛漫さに圧倒されていたフシがある。百合子をよく知る埴谷雄高は彼女を「生の全肯定者」と呼び、もともとニヒリストの気の強かった泰淳の世界が、百合子のおかげで広がりのある全体性を得たと言っている(「武田百合子さんのこと」)。「相思相愛でたいへんけっこう、なんて感じじゃなくて、人を愛するってこともあそこまでいくと、愛してるんだか戦ってるんだかわからない」という前記の鈴木修の回想からもわかるように、二人は人として拮抗していたのだ。
百合子は一九二五年(大正十四年)、横浜市に生まれた。旧姓鈴木。父は裕福な米問屋の入り婿だったが、妻が死んでから後妻をもらい、そこで百合子が生まれる。しかし、母親は百合子が小学生のときに死去。戦争末期、生家は米軍の爆撃で全焼し、戦後の農地改革もあって鈴木家は完全に没落した。百合子はすでに結婚していた兄の家に寄宿しながら、行商などするようになる。
文学には若い頃から縁があった。横浜の女学校時代には同人誌「かひがら」に所属し、「新女苑」に詩などを投稿、戦後の混乱期も、職を転々としながら同人誌「世代」に参加している。やがて、ひょんなことから作家たちが多く集まる文壇喫茶・酒場「らんぼお」で女給として働きはじめ、文士たちの間でアイドル的な存在となる。泰淳の熱烈なアプローチを受けたのもこの「らんぼお」でのことだった。当時の百合子は、「もの喰う女」に登場する房子と同じように、いつも同じスカートで、年中素足のまま同じ靴を履いていた。いかにも育ちの良さそうな、恥ずかしがりで奥ゆかしいところと、ぐいぐい行動に出る、犬のように野性的なところの両面を持っていた。猛スピードで車を乗り回し、ちんぴらと堂々とやりあうような人でありながら、しごく繊細で思いやり深い人でもあったのだ。だから、接した人はすぐファンになった――梅崎春生、堀田善衛、埴谷雄高、色川武大、吉行淳之介、加藤治子、赤瀬川原平、村松友視……みんなそうである。
2024.01.26(金)
文=阿部 公彦(東京大学教授・英文学)