中村倫也がトップギアで繰り出す壮絶な感情表現
このように、入り(イントロ)の時点で構造的・展開的にも洗練されている本作。ここではテンポも緩やかでトーンも落ち着いており、まず観客を馴染ませてからボルテージを上げていく親切な設計になっている。そして老いたベートーベン(福士誠治)が登場し、語り手が修道女からスイッチ。「自分の年齢が曖昧な理由」として「モーツァルトに取りつかれた父親が、彼を超える存在を作ろうとして息子である私の年齢を詐称したから」と幼い頃から課せられた「天才であれ」という十字架に苛まれていたことが明かされる。
ここからは幼少期→青年期の物語が展開していくのだが、それだけでなく「芸術家の業」「親が子を支配する恐ろしさ」といったテーマ性ともリンクし、さらにそれがのちに語られるベートーベンと甥のカール、マリーとウォルターといった登場人物たちの関係性にもオーバーラップする布石になっていく。また、驚かされるのが“兼ね役”の効果的な使い方。福士がルードヴィヒ=ベートーベンと彼の父を演じ、Wキャストの高畑と大廣がウォルターに加えてルードヴィヒとカールの幼少期を演じ分けることで、そこに肉体的な共通点が生まれる。ルードヴィヒが年齢を経るにつれ、あれほど憎んでいた父親に似てきてしまうシーンなどの“父親の幻影”が付きまとう残酷さが「キャストが同じ」ことでより一層映えるのだ。
つまり『ルードヴィヒ~Beethoven The Piano~』は、序盤から伏線が張り巡らされた超・技巧派のテクスト&演出の宝庫なのだ。そしてそこに乗ってくるのが、中村をはじめとする俳優陣の熱量というわけ。エネルギーでひたすら押していくだけの作品とは一線を画す、物語自体の強度。しかもそれを形成する“骨組み”=観客へのインプットを開始から10分足らずで済ませてしまうため、我々観る側は残り110分は目の前で展開する熱演に目と耳を傾けるだけでいい。俳優陣の躍動を語る前に、そのポテンシャルを最大限引き出す脚本・演出についてご紹介しておきたい。
そして、遂に主役の登場。中村倫也演じるルードヴィヒ(青年期)の初登場シーンはなかなかに特殊で、「舞台の高所(2階部分)から父親に折檻されている幼少期の自分を見る」というもの。先ほど述べたように“地ならし”はすでに住んでいるため、中村はいきなりトップギアで壮絶な感情表現を繰り出してくる。「飼育」と評するほどの非人道的な扱いを受けた幼少期がオーバーラップし、苦悶に顔をゆがめてかつての自分を抱きしめる――。舞台版ではこの時点で観客の心をわしづかみにしただろうが、劇場版では映像ならではの寄り/引きを巧みに組み合わせたカメラワークと編集が効いており、消せないトラウマに苛まれる悲痛な表情の細部までを確認できる。
2024.01.02(火)
文=SYO