中村倫也の“熱量”を映像化した衝撃
ベートーベンが聴力を失いながらも作曲家として精力的に活動し続けたのは有名な話だが、本作は「父親から虐待じみたスパルタ教育を受けていた」「難聴による絶望から遺書を書き、自殺を考えていた」「甥の後見人を務めていた」といった彼の人生を深掘りし、ドラマティックなアレンジを加えてベートーベンの才能の裏にあった懊悩や業(ごう)を描き出す。「悲劇の天才」というパブリックイメージに血肉を与え、ひとりの人間として確立させた印象だ。劇中で情報が更新され、実像が形成されていくため、逆にいえばベートーベンに対する予備知識がなくとも問題なく楽しめる。偉人の伝記作品特有の上質感とエンタメ性の両方を備えているのだ。
ではここからは、具体的に本作の面白さとは何か、前述した熱量について、さらにそれが「映像化」した際に何が生まれるのか――について、語っていこう。『ルードヴィヒ~Beethoven The Piano~』は約2時間の作品だが、物語の構成・展開の上手さと人物造形の濃さ、そしてミュージカル要素が絶妙にマッチしている。
物語は、とある青年(木暮真一郎)が修道院(木下晴香)を訪ねてくるところから始まる。彼は自分を「ベートーベンの弟子になり損ねた男」と語り、修道女に「昔の名前しか存じ上げなかったので探すのに少し苦労しました。亡くなった先生からです」と告げて手紙を渡す。修道女がベートーベンからの手紙を読んでいくなかで彼の過去が語られるという回想形式なのだが、第三者が登場することで物語にダイナミズムが生まれている。観客の脳内においては「修道女とベートーベンの関係は?」「修道女は昔は何をしていた人?」「弟子になり損ねたとは何があった?」「一度しか会っていない青年になぜベートーベンは大切な手紙を託したのか?」といった疑問が次々と浮かび、続きが気になる/その謎を解明したいという“引き”が冒頭数分で形成されるのだ。
しかも、修道女が青年に「ピアノを弾いてほしい。手紙を読んでいる間、あの方の音楽に触れていたい」と相談することで非常に自然な形で音楽が奏でられる。『ルードヴィヒ~Beethoven The Piano~』はピアノやバイオリン、チェロの生演奏に合わせてキャストが歌う形式のミュージカルだが、「ピアノを弾く」行為そのものが物語に組み込まれているのだ。かつ、木暮演じるピアニストの青年が舞台上で演奏し続けることによって、彼が立会人として場に存在し続ける意味、そして「ピアノを弾いている現在」と「物語られる手紙の中の過去」というふたつの時間の同居が見事に成立している。観客に“過去”を視覚的に意識させることで「ベートーベンが亡くなった」という事実、そこに付随する哀しみを常に纏わせているのだ。
2024.01.02(火)
文=SYO