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コミュニティの絆が「枷」になってしまう残酷さ
ときに喧嘩をしながらも、彼らはひとつの共同体をつくりあげ、それをしっかりと維持している。困っている相手がいれば自然と手を貸し、食事時にはみなで食卓を囲む。新たに仲間に加わる人がいれば、先輩たちがここで暮らす術を教えてくれる。それは、社会から見捨てられたなら自分たちで支え合えばいい、という彼らなりの処世術だ。こうして、ほとんど口をきかないモクもまた、父親代わりのファイに導かれ、このコミュニティに溶け込んでいく。
ただし、ここにいる人たちは決して聖人君子ではない。ファイをはじめ、路上生活者の多くは薬物依存症に苦しんでいて、互いに薬を融通しあうことで強い絆を保っている。女性は体を売ることでしか生きられず、若者は暴力に導かれる。皮肉なことに、共同体の存在は、彼らの生活を支えると同時に、ときに人々がこの暮らしから抜け出すのを妨げてしまう。
こうした負の一面を、映画は隠さずに映しだす。なぜならそれもまたひとつの現実だからだ。セーフティネットがまともに機能しない社会において、一度システムからこぼれ落ちた人が再びもといた場所に戻るのは、想像以上に難しい。住居がなければまともな仕事を得られず、路上生活から抜け出せない。仕方なく犯罪行為に手を出したり、絶望から酒や薬に頼らざるを得なくなった人は多いだろう。ジュン・リー監督は、この場所に流れ着いた人々のこうした現状をこそ見つめるべきだと訴える。彼らがこのような生活に陥った原因を探るのでも、その行為の是非を問うのでもなく、こんなふうにしか生きられない人々が現実にいることを認めたうえで、当然ながら彼らにも人権があり、その人権を侵すことは許されないのだと、私たちに思い出させてくれる。
ここには、いくつもの対比構造があり、社会の歪みを浮かび上がらせる。ファイたちが住む街「深水埗」には、古くから残る街並みと、再開発によって建てられた真新しい高層ビルがグロテスクに交じり合う。外国から香港に渡ってきた者たちが路上生活に陥る一方、裕福な人々は香港から海外へと渡っていく。同じ仲間でも、路上生活から抜け出そうとする者と、路上に留まることに固執する者がいる。そうして賠償金が何より大事だという意見と、謝罪こそが重要だという主張が対立する。社会的弱者たちを支援する側の課題も浮き彫りになる。支援には長い時間が必要で、ときに支援者の善意が彼らを傷つけてしまうこともある。何が本当に彼らのためになるのか、答えを出すのはあまりに難しい。
2023.12.30(土)
文=月永理絵