この記事の連載

 CREA夏号の特集「母って何?」では、さまざまな立場の人たちに「母」や「親」になること、ならないことについて語ってもらいました。

 2021年に出産したライター、夏生さえりさんは、自身の妊娠・子育てについてのエッセイも連載中。夏生さんがいま考える「母」とは?


「アッチ、イコウ。ママ、オイデ」手を引かれて母になる

写真はイメージです。photograph=AFLO
写真はイメージです。photograph=AFLO

「ここに、お母さんのお名前をお願いします」

 妊娠が判明して4週間後、産院予約の際にそう言われた。両親の名前を書くのか。でもなぜ母だけ? 父は? 思考停止。1秒、2秒、3秒……。少し考えて、わかった。あ。お母さんって、私のことか!?

 お腹に子どもがいることも信じられないのに、エコーでも勾玉のような粒しか見えないのに、母性とやらもまだないのに、今まで通り生きているだけなのに、世間から突然“お母さん”と呼ばれる、ちょっと暴力的なまでの急変化よ。っていうか……、私、この先、一生“お母さん”なのか……。いつ、その境界をまたいだんだろう。本当にお母さんになれるのかな。ちょっと怖い。空欄に自分の名を書きながら、不安に襲われたのを覚えている。

 けれど、子は待ってくれない。

 つわり、体型の変化、食欲の急増幅、頻尿、すぐにツるお腹、四角い尻、奇妙な胎動。慣れ親しんだ自分の体が未知の領域に入り、自分でなくなっていくような恐ろしい感覚が常にあった。産んだ後も同じ。ガチガチに張ったおっぱいから涙が落ちるように母乳が垂れて、鏡の前で立ち尽くす私の体は、見知ったものとは全く違う異物であった。眠くて腰も腕も全部痛くて、けれど子が頼るのは私しかいなくて、夕方にはよく不穏な気持ちになった。

 けれど、けれど、子は待ってくれない。

 寝返り、ハイハイ、つかまり立ち。歩いて、走って、喋って、来週でもう2歳。「アッチ、イコウ。ママ、オイデ」と言う息子に手を引かれるとき、想像以上の力強さに驚いてしまう。

 思えば君は、ずっとそうだった。勾玉だったころから今まで一度も立ち止まらず、私をグイグイ引っ張って、前へ前へと進ませる。妊娠前から地続きで、私は私のままだけど、繋いだちいさな手に導かれるように、母としての時間も積み重ねている。

 母になるって、どういうこと? 私はどういう母になる? まだわからないことだらけだけど、もう大丈夫。君が私を未知の世界へと連れていってくれるから。私は私のままで、一緒に歩めばいいだけだから。

●夏生さんの著書

『揺れる心の真ん中で』

恋愛ツイートなどで若者に支持される著者。20代後半の日々変わりゆく心模様を描いた27篇のエッセイを収録した本書にも、悩める女性たちからの共感の声が。

幻冬舎 1,430円
» この書籍を購入する(Amazonへリンク)

夏生さえり(なつお・さえり)さん
ライター

山口県生まれ。エッセイから脚本まで、文章にまつわる活動は多岐に渡る。映画『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』では共同脚本を担当。幻冬舎plusで育児日記『想像してたのと違うんですけど~母未満日記~』を好評連載中。

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「母って何?」
あの人の回答は?

2023.06.26(月)
Text=Saeri Natsuo
photograph=AFLO

CREA 2023年夏号
※この記事のデータは雑誌発売時のものであり、現在では異なる場合があります。

この記事の掲載号

母って何?

CREA 2023年夏号

母って何?

定価950円

CREAで10年ぶりの「母」特集。女性たちにとって「母になる」ことがもはや当たり前の選択肢ではなくなった日本の社会状況。政府が少子化対策を謳う一方で、なぜ出生数は減る一方なのか? この10年間で女性たちの意識、社会はどう変わったのか? 「母」となった女性、「母」とならなかった女性がいま考えることは? 徹底的に「母」について考えた一冊です。イモトアヤコさん、コムアイさん、pecoさんなど話題の方たちも登場。