そのテーマで書いた私の小説は、これが初めてというわけではなく、『マヤ終末予言「夢見」の密室』(祥伝社文庫)という作品が、やはり新興宗教に入信する若者たちの物語を主題として描いている。こちらの作品は、私が東大で学んだ見田宗介先生の社会学ゼミでの交遊や交流が素材となっていて、当時流行っていたカルロス・カスタネダのスピリチュアリズムやヤマギシズムなどのコミューン運動をモデルとして主題的に描いている。

 スピリチュアリズム運動は私にとって、それだけ身近な世界だったし、それと近接して、新宗教運動もまた、自分にとってなじみ深い、よく知っている世界である。しかし、特にオウム事件以降、その時代以前のスピリチュアル運動が全否定されたような観があり、知識伝達も断絶している。今ではカスタネダを繙くものは少なくなり、80年代に栄えた新宗教の多くも姿を消していった。だとすると、その時代の記憶を伝える意味でも、当時を知るものが、その経験を小説の形で伝えておくのが肝要ではないか。それが、私がこういうテーマを選んで書くことにした大きな理由である。

 そういうわけで、ある意味ではこの作品は『マヤ終末予言「夢見」の密室』と姉妹作である面があるが、こちらの方は、宗教の勧誘員に焦点をあてたものである。オウム事件が発生して以降、日本のミステリでも、新宗教を作品内で扱うものが増えたが、私の見るところでは、実地の経験の観点でいうと、どれもこれもリアリティが足りない印象が拭えない。ある意味でそれは無理もないところで、巨大な組織犯罪をするにいたったオウム教団の内部などを外部のものがリアルに地に足のついたものとして捉えるのはほぼ不可能である。私自身、あの教団の内部については、想像力の及ばない闇の世界が広がっていたのだろうと考えているが、一方で、当時たくさんあった新宗教の団体が全部そんなものだったわけではない。それは日常生活と地続きで、学生生活や社会生活に密着したものとしてあった。これまでの日本で書かれた新宗教を描く小説の多くは、もっぱら外部の視点にとどまり、新宗教の内部からの視点が得られないのが、内部のものからみてのリアリティが感じられない大きな原因であろうと私は考える。それと比べて、この作品で描かれている新宗教の教団の内部の話は、戯画的に書かれてはいるものの、他作品と比べて格段にリアリティがあるものになっていると思う。なぜなら、この作品は、新宗教を外側の視点でみるのではなく、内側の視点から描かれているからだ。

 文庫化にあたって、この作品を久しぶりに読み返してみて、現時点でホットになっている話題――旧統一教会問題と表現規制問題といった最前線の話題が、この作品では主題として扱われていて、まさに予見的な作品であったと自負できるところがある。

 続編の『本郷の九つの聖域』は、後半の200枚は書き上げたものが手もとのファイルにあるが、前半がいまだに満足のいくものになっていないので、上梓される日を気長に待っていただきたいと思う。

  2023年2月


(「あとがきに代えて」より)

2023.04.24(月)
文=小森 健太朗