先日などは親しい担当編集者から、「とにかく白石さん、奇跡はもうやめてください」と面と向かって注意された。
私のことを心配してそう言ってくれているのはありがたいし、なぜそんなことを言うのかも、皆がこの余りにも殺伐とした世界の住人として生きている限りは十二分に理解できる。だが、たとえば本書で主人公の種本由香里が繰り出すさまざまな超能力それ自体は荒唐無稽に見えるとしても、彼女の使う特殊な能力に表象される人間個々の潜在的な力は、間違いなくこの世界に存在していると私は信じているのである。
私は、むしろ、そうした人間誰しもが身につけているはずの超常的な力や才能を必死に覆い隠そうとする何らかの別種の力が世界には働いていて、そうした力の存在こそが、この世界を穏やかならざるものへと導き、つまりは混沌と惨劇とを生み出しているに違いないと考えている。
人類の自らを見つめる目は世紀を重ねるごとに曇りの度合いを強めているが、それはわれわれ一人一人が首にかけている双眼鏡のレンズを執拗に曇らせつづけている何者かがいるからだと思う。そしてその何者かはすべての人の肩の上にちょこんと座って、私たちのことを迷いや苦しみへと誘っている。
私にすれば、奇跡なくしてはこの世界はただの救いなき暗黒であるし、遠い昔の何らかの宗教的伝承にそれを見出すのではなく、いまこの現在の世界において自らの双眼鏡で、その奇跡というものの有り様やそれが存在する理由を追究することが私たちの人生にとって何よりも大切でエキサイティングで、さらには最大の愉悦であろうと思われる。
そして、小説というメディアが一番に果たすべき役割もまたそこにあるのだ。
私は四十歳を過ぎてデビューしたスロースターターだが、それでも作家業はすでに四半世紀に及んでいる。いままでいろいろな作品を書いてきたのだが、ここ数年は、自分がどうしてあんなに小説家になるのに苦労したのかを思い出させてくれる、このデビュー作『見えないドアと鶴の空』へと帰還する道を、これまでよりも慎重に丁寧に歩いているような気がしてならない。
なぜそんな道を歩んでいるのか?
それはつまり、この作品に還り、この作品を超えることが作家としての最も大きな課題であることに、私自身がようやく気づいたからだと思われる。
令和四年十月十日 白石一文
(「文庫版あとがき」より)
2022.12.26(月)
文=白石 一文