もう一つ、記憶に残っているのは、しばらくして石原慎太郎氏の担当になったとき、選考委員だった石原さんに「きみの佳作受賞は俺が強く推したんだぞ。憶えておけよ」と言われたことだった。例のこわいようなかわいいような人懐っこい笑みでそう言われた私は、この人のために誠心誠意尽くそうと心に誓った。
佳作だったとはいえ、応募総数千数百本の中から最後の二作に選ばれるのは至難の業に近い。自分の書いた小説を推してくれた人は、私にとって掛け値なしの恩人に違いなかった。
新人賞の書き手として「すばる」という発表舞台を得たのが嬉しかった。
それからは編集者の仕事を続けながらせっせと小説を書いた。
「星条旗」というタイトルの三百枚くらいの作品を書き上げ、さっそくすばる編集部に持ち込んだ。読んでくれた担当者と編集長は気に入ってくれて、すんなりと掲載が決まる。
学生時代からほとんど毎日(「週刊文春」編集部の頃はさすがに無理だった)書いていた私にすれば三十半ばまでくすぶっていたのは予想外の蹉跌と言ってよかった。その分を、いまから取り返すのだ、と世間知らずにも息巻いていたのだ。
ところが世の中は一筋縄ではいかない。
掲載が決まりゲラにまでなったところで、すばる編集部に不祥事が勃発。編集長とデスクだった私の担当者が共に席を追われてしまい、新しい編集長が着任したのである。新編集長は「星条旗」を読んで掲載を却下。結局、渾身の一作と思っていたそれはお蔵入りの憂き目を見てしまう。
思えばこれが躓きの石だった。
それからは何を書いてもボツを食らい、佳作の「鶴」も単行本化はされず、私の意欲は空回りするばかり。集英社以外にもツテを頼って他の版元の文芸編集者に作品を読んで貰ったが、二十代に書き上げ、どの新人賞にも引っかからず(一次予選にも残らなかった)、それでもずっと改稿を重ねていた『僕のなかの壊れていない部分』(文春文庫)も『不自由な心』(角川文庫)も、「こういう小説を書いているような人は、人間として信用できない」「人間に番号を振るなんて人としての心を失っている」と散々な言われようだった。
2022.12.26(月)
文=白石 一文