●結末がないかのような原作。その芯を食うために

――映画では、原作の「ドライブ・マイ・カー」に加え、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」のストーリーが絡み合いますね。

 「ドライブ・マイ・カー」映画化の許諾を得るにあたって、まずプロット(物語の筋)を練る作業をしました。この短編をどう映画化するのか。

 起承転結でいうところの、「起承転」で原稿が終わっているようなところがある。

 それをどうやって肉付けしようかと考えるわけですが、それが見当はずれなものでは、やはり許可は降りないでしょう。

 映画のためにもならない。

 原作の芯を食わなければいけない。

 短編集「女のいない男たち」を何度も読んで、短編の「シェエラザード」と「木野」の中から、描かれていない家福(西島秀俊が演じる主人公)の、過去と未来としてはめこめる要素をピックアップしました。

 さらに現在の家福をより立体的に感じさせるための細部として、「主人公は何をしているのか」「どういう仕事か」を考えました。

 原作で主人公・家福は俳優である、そして(三浦透子演じる)みさきは運転手である、と示されているんですけど、運転手は車を運転するのでいいとして、では俳優は具体的に何をするのか。

 原作の中で、家福が「ワーニャ伯父さん」を演じると書いてあって、ここに注目しました。

 僕の前作映画『寝ても覚めても』ではチェーホフの「三人姉妹」をちょっとだけ引用しているんですけど、その頃からチェーホフには興味を持っていました。

 「ワーニャ伯父さん」は観劇もしたし、原作を読んだことも多分あったんですけど、あらためて家福が演じるという仮定で読み始めたら「これは面白い」と。

 多くを語らない、家福という人の内面を示すものになると思いました。

 映画の中で、村上さんの文章をそのまま使う部分はほぼないんですけど、チェーホフの戯曲はむしろそのまま引用しました。

 「チェーホフ」のテキストの強度や場面が、この映画を違う次元に押し上げてくれました。

 最初「ワーニャ伯父さん」はディテールでしかなかったけれど、やがて本筋となって、最後のシーンにつながっていきました。

 起承転結での「結」の部分を、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」が担うことになったんです。

2021.08.14(土)
文=CREA編集部
撮影=佐藤 亘