映画を通して何かを目撃してしまう可能性

——病院の場面の直前は、優作が聡子のもとから去っていくというシーンです。ちょうど100分くらいだったので、私はここで終わるんじゃないかと観ながら思っていました。ですから、聡子が空襲に遭う怒涛のラスト15分には衝撃を受けました。あの15分はそれまでのスパイ物語とはテンションがガラッと変わりますが、やはりこの題材を描くには必要だったということでしょうか?

 それこそヒッチコックのような純粋な娯楽映画を狙っていたなら、去っていく高橋さんのシーンでエンドマークが出るという、洒落た終わり方にしたかもしれません。

 ただ、僕は初めてこういった題材を扱って、次にいつまたチャンスが来るのかわからないし、これが最後かもしれない。そうなったとき、ジャンル映画から逸脱して申し訳ないんですけど、もう少しこの時代とそこに生きた人々の置かれた状況を見てほしかった。

 僕なりの——そこには濱口や野原も入っていますけど、意見というほどはっきりしたものではありませんが、映画を観る方がこの時代について考えるきっかけになるような描写をしたかった、ということですね。

——今、「意見というほどはっきりしたものはありませんが」とおっしゃいましたが、私自身は本作から強いメッセージを受け取りました。聡子はとある出来事を映したフィルムを観てしまったことにより、夫とともに世界を変えるべく行動を起こそうとします。映画は世界を変えるためのきっかけになるかもしれない。本作からそんな思いを感じ取ったのですが、いかがでしょうか?

 そこまで明確に意識はしていませんでしたが、素晴らしいご指摘です。映画にはそのような力があると信じています。ただ、この作品では濱口も野原も僕も一致して、ここまではやりたいと最初から考えていたことがありました。

 それは、”最後で聡子に何か決定的なものを見せたい”ということ。要するに空襲のことなんですが、それを見たら聡子はどうするのかということを、物語の最後に据えたわけです。もちろん、それは観てくれる方にも向けられています。

 決定的なものを目撃する経験っていうのは、現代の日本に住む僕たちにはなかなかありません。ですが、映画を通して、ひょっとすると現実よりはっきりと何かを目撃してしまうということはあるんじゃないか。

 やや映画至上主義的な考え方ですけど、そういう役目を映画が果たすことはあるかもしれないという思いを、僕は持っています。

黒沢 清(くろさわ きよし)

1955年生まれ、兵庫県出身。立教大学在学中より8ミリ映画の制作を開始し、長谷川和彦、相米慎二らに師事した後、83年商業映画デビュー。その後『CURE キュア』(97)、『回路』(00)、『アカルイミライ』(02)、『トウキョウソナタ』(08)など、数多くの作品で国際的な注目を集める。近年の作品に、第68カンヌ国際映画祭ある視点部門監督賞を受賞した『岸辺の旅』(14)、『クリーピー 偽りの殺人』(16)、『ダゲレオタイプの女』(16)、『散歩する侵略者』(16)、『旅のおわり世界のはじまり』(18)などがある。

映画『スパイの妻』

一九四〇年。少しずつ、戦争の足音が日本に近づいてきた頃。聡子(蒼井優)は貿易会社を営む福原優作(高橋一生)とともに、神戸で瀟洒な洋館で暮らしていた。身の回りの世話をするのは駒子(恒松祐里)と執事の金村(みのすけ)。愛する夫とともに生きる、何不自由ない満ち足りた生活。
ある日、優作は物資を求めて満州へ渡航する。満州では野崎医師(笹野高史)から依頼された薬品も入手する予定だった。そのために赴いた先で偶然、衝撃的な国家機密を目にしてしまった優作と福原物産で働く優作の甥・竹下文雄(坂東龍汰)。二人は現地で得た証拠と共にその事実を世界に知らしめる準備を秘密裏に進めていた。
一方で、何も知らない聡子は、幼馴染でもある神戸憲兵分隊本部の分隊長・津森泰治(東出昌大)に呼び出される。「優作さんが満州から連れ帰ってきた草壁弘子(玄理)という女性が先日亡くなりました。ご存知ですか?」
今まで通りの穏やかで幸福な生活が崩れていく不安。存在すら知らない女をめぐって渦巻く嫉妬。優作が隠していることとは——?聡子はある決意を胸に、行動に出る……。

蒼井優 高橋一生 坂東龍汰 恒松祐里 みのすけ 玄理 東出昌大 笹野高史
監督:黒沢清 脚本:濱口竜介 野原位 黒沢清 音楽:長岡亮介
配給:ビターズ・エンド 配給協力:『スパイの妻』プロモーションパートナーズ
https://wos.bitters.co.jp/
2020年10月16日(金)より、新宿ピカデリーほか全国ロードショー

2020.10.08(木)
文=鍵和田啓介
撮影=佐藤亘