この物語は欲の話なんです
――蔦重が絵師たちの絵にどうしても納得いかず、ダメ出しを続ける中で、歌麿をていさんが呼び戻しに行く――1度離れてしまった蔦重と歌麿を結びつけたのが、ていさんだという展開にも熱いものがありました。あの場面にはどんな思いを込めていたのでしょうか。
森下 あの三人を結び付けるのは、最後は創作物じゃないですかと思ったんです。ていさんも本屋だから、本屋として創作物を愛する思いが何より強くあって、結局そこに負けるんですよ。その為にはこのややこしい人間関係を続けていこうと。歌麿も結局、そこで戻る。もう嫌だと思っても、結局作品を作りたいから戻っちゃうっていうところがどうしてもあって、そこはやっぱりモノづくりする人の性ですよね。そういう意味で全て創作に負けていくんだと思います。
物書きや絵師ってほとんどそうでしょ。結局どんなに愛した人のことも、どんなに揉めた人のことも「飯の種や」って思って描くわけじゃないですか。全て創作に回してますよね。
――おていさんが歌麿を呼び戻しに行ったときに漏らした本音「見たい。二人の男の業と情、因果の果てに生み出される絵というものを、観てみたく存じます。私も本屋の端くれ。サガというものでございましょうか」には、森下さん自身の創作への思いものっているのでしょうか。
森下 作り手じゃなくて、読み手、受け取り手としても、私のゲロ出しの本心ですよね。だって、見たいじゃない? そういうものは、みんな好きじゃないですか。画家が最後に描いた絵は必ずポストカードになっていたりする。それは買いたいって思うじゃないですか。人が命を削ったものをみんな見たいっていう、ある意味いやらしい欲望っていうんですかね。ファンや受け取り手の方にもそうした思いはある方、結構いらっしゃるんじゃないですかね。
――一橋治済(生田斗真)が自分の子までも傀儡として権力を握っていったように、権力者が家・一族の繁栄のために次々に子を作り、子孫を増やそうとするのは、“血脈”をつないでいく「欲」ですよね。その対比として、(平賀)源内先生(安田顕)や蔦重、おていさん、歌麿など、自分が見たいもの・作りたいものを作り、伝え、広め、後の世にまで残していく「文化」としての「欲」として描かれているんですね。
森下 確かに! そうだそうだ忘れてた。この物語は「欲の話」だよねっていうのは最初にこの話を作る時にみんなで確認し合った事なんですよ。そこは第1回のナレーションの部分でも出していただいたんですが、結局、欲の話なんです。いろんな人の欲が絡み合って、それが時代を作っていく。
――治済は血脈で残そうとした。でも、血だって、結局どこまで続くかわからないですし、文化や創作物は、時代を超えて残っていくものを作ることができる。
今、私たちが歌麿の絵を見て、蔦重が出した本を知って、春町の黄表紙を読むことができるのは、血脈じゃなく、文化で残っているということですもんね。作り手の欲と、読みたい人たちの欲、いろんな欲が時代を超えてどんどん残っていったり、広まっていくのが大きな対比になっていると思うと、グッときます。










