初めて就いた仕事は“女優”

近田 終戦前と比べて、やはり暮らしぶりは変わりましたか。

湯川 ええ。趣味人だった父が駐在武官として中国に赴任していた頃に買い集めた骨董品、例えば象牙で作った仏像などを少しずつ売り払いながら、母は私を育ててくれました。だから、私の身体は、骨董品でできているんです(笑)。

近田 2番目のお兄さんは、ご無事だったんですか。

湯川 海軍兵学校を卒業した次兄は、特攻隊に志願して訓練を重ねていたんですが、出撃することなく、戦後しばらく経ってから無事に復員してきました。

近田 その後、湯川さんご自身はどんな道を進んだんでしょう。

湯川 中学1年の時に、世田谷にある鷗友学園という女子校に編入し、そのまま高校まで通いました。

近田 大学には進学されなかったんですか。

湯川 はい。大学の月謝なんか、とてもとても払える状況じゃなかったですから。そもそも、私たちの時代、大学に行く女性は、学年で数人という状況でしたし。何しろ1日でも早く働けるようになりたかったんです。

近田 高校を出て、最初に就いた職業というと?

湯川 高校在学中から、女優を始めていたんですよ。その前段があって、まず、高校1年生の時に、『ホフマン物語』というイギリスの芸術映画のキャンペーンガールの募集広告に応募したところ、採用されたんです。

近田 キャンペーンガールって、どんな仕事をしたんですか。

湯川 劇場にいらっしゃるお客さんにカーネーションの花を一輪ずつお渡しして「いらっしゃいませ!」と声をかけるだけだったんですけど、すごくいいアルバイト料をいただけまして。それをきっかけに、映画会社の宣伝部の方と仲良くなって、試写会のチケットをたくさんいただけるようになったんです。

近田 そこから、女優になりたいという夢が芽生えたと。

湯川 はい。そして、『青い山脈』や『また逢う日まで』で知られる今井正監督が『冬の旅』という新作に出演する新人女優を募集していることを新聞で知り、手を挙げたところ合格して、山田五十鈴さんが主宰する現代俳優協会の研究生になったんです。

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