写楽制作の謎解き――複数人説を採用した理由

 森下氏は写楽の複数人説を採ることについて「最初の頃から決めていた」と語る。「もちろん美術史の世界では今は一応決着は見ているということは存じ上げた上で」と前置きしつつ、「写楽の絵をざーっと並べてみたときに、複数人説のほうがしっくりくるなとは思った」という。

 その根拠は二つある。一つは制作ペースの問題だ。

「短い期間にものすごい数を出していて、しかもそれを一気に出したとしたら、ものすごい短時間で全部準備しなきゃいけなくて。果たしてこれを一人でやったのか」。

 もう一つは技法の変化だ。

「二期からの写楽の絵は全身像になるんですが、一期で作った顔をコピペしたみたいに作っていっているんですね。それを見ると、『これ何人かで手分けしたやろう?』っていう気がして、複数人説を採ろうと。それに、幕が開いてから行って描くという方式にすると、たぶん28枚をパラパラとして出していけず、揃えて出すことができない。公演期間に全部合わせると思ったら、かなり強行スケジュールになるから、やっぱり稽古を見たと思うんです」

 ただし、「写生をする人間は目撃されちゃうから歴史に残っちゃう」という問題がある。この矛盾を解決するために劇中で採用したのが、「大勢の中に怪しい人間1人混ぜておく」という手法だ。複数の絵師が稽古場に紛れ込んで写生をする――そうすれば、誰か一人が目撃されても「不審な人物がいた」程度の記録にしかならず、組織的な絵師集団の存在は歴史に残らない。

 「本当に写楽はどうやったんやろって思うんですよね」と森下氏。そして、選択されたのは、写楽の正体として現時点で最有力となっている斎藤十郎兵衛を一橋治済の「替え玉」として登場させ、「仇討ち」に決着をつける方法だ。さらに、恋川春町を実質的に死に追いやった松平定信は、ドラマでは老中を辞任した後、白河へ戻り、文化活動に専念する人生を歩む。これは定信なりの春町への弔いだったろう。史実でも定信は寛政5年(1793年)に老中を辞して白河藩主として隠居後は学問・文化活動に傾倒し、『集古十種』などの編纂に取り組んだ。

観念性とエンターテインメント性の融合

 森下氏の決断は、一見相反する二つの価値を統合する試みだった。文化への信頼やロマンを描く観念的な結末の美しさを残しながら、大河ドラマという枠組みで幅広い層に届く物語を紡ぎ、一年間追ってきた視聴者にカタルシスを提供する――この両方を実現したのが、今回の脚本変更だ。

 当初の観念的な結末が持っていた美しさは失われていない。写楽という存在自体が、蔦重たちの文化的営みの結晶であることに変わりはない。ただ、それに直接的でわかりやすい「敵討ち」の要素を加えることで、物語に強い推進力と満足感を与えた。つまり、「謎を仕掛ける」という文化的報復と、「敵を討つ」という痛快な展開を、一つの物語の中で両立させたのだ。

 第47回を視聴した今、当初の構想を知ることで、視聴者は放送された結末を別の角度から味わえる。「もし森下氏が当初の構想のまま描いていたら」――そんな想像を巡らせることで、実際に選ばれた結末の意味がより深く理解できるのではないだろうか。

 「敵討ちとガッチャンコ」という軽やかな言葉で表現されたアイデアは、蔦屋重三郎という出版人を描く物語にふさわしいものだった。出版という仕事が、文化性と商業性の両立を求められるように、大河ドラマの脚本もまた、芸術性と娯楽性の両立を求められる。森下氏はその難題に、柔軟な発想で応えてみせた。

田幸和歌子(たこう・わかこ)

1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社を経てフリーランスのライターに。ドラマコラム執筆や俳優・プロデューサー・脚本家等の取材多数。エンタメのヤフーニュースエキスパート。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など。