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鈴木ジェロニモの「説明」と谷川俊太郎の「定義」の違い

──『水道水の味を説明する』を読んだとき、時間経過を感じたんです。ひと口飲んですぐ出てくる感想と、そこから少しずつ考えるにつれ言葉が変化していくさまが面白いなと。

ジェロニモ 本にした時に若干入れ替えてはいますが、基本的には出てきた言葉の順番に並べているので、「説明」はたしかにおっしゃるように時間経過を感じられる、ドキュメンタリーなんだけれど物語があるものだなとは思いますね。短歌は僕の場合、だいたい一点の時間、前後2秒間くらいのことを五七五七七にする感覚なんです。一方で「説明」の動画は30分くらい撮りっぱなしにしているものを、YouTubeでは考えている時間をカットしてアップしている。だから、この一つのものに対する「説明」は、短歌でいうところの連作みたいな感じなのかな。一編の説明の中には短歌の流れのようなものが含まれているのかなと思います。

──『水道水の味を説明する』の書籍の帯には、谷川俊太郎さんの「僕は『定義』には興味があるけど、『説明』には興味がないので帯は書けません」という言葉がありますよね。たとえばこれが「定義」でもよかったかもしれない。なぜ「説明」だったんでしょう?

ジェロニモ 谷川さんのこの文章は、実はお断りの文言だったのを、「これはすごくこの本のことを表しているな」と採用させてもらったものなんですよ。この言葉にも繋がるんですが、説明と定義とは大きく違うと僕は思っていて。僕の「説明」は、たとえば暗闇の中に紙コップが置いてあったとして、ミニチュアの僕が目隠しをした状態でその中に飛び込んで、「このあたりが曲がっているから、これ紙コップかもしれません」という行為なんですよ。

 で、谷川さんはそれこそ『定義』という詩集を出してらっしゃいますけど、対象と距離をとって神様の視点から紙コップを観て、その輪郭を的確に描写していく。それが谷川さんがやられていた詩や「定義」の行いのような気がするんです。言葉で生み出したものの形は近いように見えても、ベクトルとしては真逆な行為。それが説明と定義の違いだと思っています。「説明」にはより身体性がある気がしていて、僕は芸人という身体表現をしている身として、それを大事にしています。

2025.02.08(土)
文=釣木文恵
撮影=今井知佑