四十代くらいの男の人がいた。ぼさぼさの髪に、陽に焼けた肌。香坂さんの「思い残し」の男性だ。

「すみません、お邪魔でしたか?」

 山吹が声をかける。

「いいのよ、いいのよ。この人、もう帰るところだから」

 香坂さんは、高価そうな水色のシルクっぽいパジャマを着ていて、顔色はよく元気そうに見えた。手術は無事に成功してもうすぐ退院できる、というのは本当らしい。

「椿の病棟のナースさんたちかな? 君は怖そうに見えるけど、意外と職場の子たちに慕われているなあ」

「意外と、は失礼でしょ」

 ベッドに近づくと、男の人が頭をさげてきた。

「どうも、椿の夫です」

 ええ! と山吹と二人で声をあげてしまった。香坂さんはてっきり独身だと思っていたし、たぶん病棟のみんなもそう思っているだろう。

 旦那さんが愉快そうに笑い、目じりにしわが寄る。

「香坂さん、結婚してたんですか!」

 山吹が声をあげる。

「ちょっと、言い方」

 私がたしなめるのも聞かず、山吹は好奇心で目がらんらんとしている。

「そうよ。知らなかったの? この人、普段は単身赴任で離れているから独身に見えたかしら」

「いつもはほとんど連絡をよこさないくせに、病気になったとたん呼び出されたわけ。まったく、たまらないよなあ」

 そう言って旦那さんは、あははと声を出して笑った。

 そうか。香坂さんは、自分の病気がわかって手術が近づいてきたときに、離れて暮らす旦那さんのことを考えていたんだ。全身麻酔の手術には、多くのリスクがともなう。医療者の香坂さんは、普通の患者さん以上に危険性を理解しただろう。だから、旦那さんに会いたかった。それが「思い残し」となって現れた。

「ああ、そうだ。これ」

 山吹が差し入れのクッキーを渡す。

「お気遣いさせちゃってごめんね。何も持ってこなくていいって伝えるように、御子柴くんにも言ったんだけどね」

「やっぱり、君が怖いからじゃないか?」

 旦那さんがからかい、香坂さんがにらむ。こんなにかわいらしい香坂さんは初めて見た。

2024.11.08(金)