五十代には、人気作家として、小説だけでなく、ルポルタージュや座談会、ラジオ出演など、活動の幅をいっそう広げた。

 六十代になっても、エネルギーは衰えなかった。奈良・斑鳩(いかるが)の法輪寺三重塔の再建がとどこおっているのを知ると、寄付金集めに尽力し、現地に住み込んで完成を見届けた。露伴の「五重塔」の印税で暮らしてきたという思いが背景にあった。

 宮大工から聞いたひのきなどの話から樹木全般へ関心を広げ、七十歳近くになってから、日本全国の巨木や樹林を訪ね歩いた。山地崩壊が目につくと、時には背負われてまで山奥に行き、各地の崩れのさまを自分の目で確かめた。

 なにごとも力いっぱいで取り組む「渾身」を父親から教えられた幸田文は、気概と行動力の作家になった。そのパワーは、母親の死後、『幸田文全集』(岩波書店)発刊をきっかけに随筆を書き始めた娘の青木玉、小説やエッセーを書く孫の青木奈緖にまで受け継がれている。

 父親の露伴が文をどのように教育したか、その土壌からどのように才能が開花したか。よくわかるのが、この選集第一部の「啐啄」「あとみよそわか」「水」「このよがくもん」など初期のものだ。座談の名人だった露伴から無意識に学んだ言葉遣いの呼吸が、ユーモアをにじませている。

 露伴は、儒学の思想「格物致知(かくぶつちち)」を、とりわけ大事にした。物やできごとにそって知識を獲得する、周囲を観察し奥の原理をみつけていく。徹底した実践教育である。

 父親が娘に性教育する「啐啄」は、露伴流の教育の始まりといってもいい。「啐」は、もとは卵の中のひなが鳴くこと、「啄」は親鳥が卵のからをつついて割ること、両方のタイミングがぴったりあって、ひなが誕生する。

 女学校に入学したころ、十二歳の春のある日、露伴は、「おまえ、ほら、男と女のあのこと知ってるだろ」と問いかける。何気ないひとことがシュッとすられたマッチの火となって、授業で習った花の受精、鳥や犬の性欲と、近所の花柳街や道に落ちているゴム製品まで、さまざまなことが、一直線に人間の性欲とつながって照らし出された。

2023.10.06(金)
文=由里 幸子(文芸ジャーナリスト)