「平ったい期間」は離婚後の時期をふりかえっている。出戻って落ち込んでいる娘に、露伴がお茶や踊りの虎の巻などについて学んできて、自分に教えるようにいいつける。しばらく稽古通いをするが、目的は果たさないまま終わる。あれは何の意味があったのかと不思議がるのだ。遊芸で娘を慰めようとする露伴の作戦だったのか。
「終焉」は、露伴の死の直後に書かれた一つだ。露伴は生死を達観して、空襲のときも防空壕がわりの押入に入るのをいやがった。「死なれたくない」一心の娘と、逃げるかどうかで厳しいやりとりをした。幼い時から「愛されざるの子」「不肖の子」だという劣等感をもっていた文は、自分の言葉を拒むのはそれゆえかと悲しんだのだ。
しかし、最期近くの日々に、父親の柔らかいまなざしに長年のこだわりは溶けた。
死の三日前、ふたりは最後の会話をする。「おまえはいいかい」と聞かれ、文が「はい、よろしゅうございます」と答えると、露伴は「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と別れを告げるのだ。見事な最期といっていい。
そして幸田文は、愛(いと)し子としての自信を取り戻して、後半生に向かっていく。
露伴は多くの文化人との交流があった。それぞれへの父親の人物評を紹介しながら、柳田泉を回想した「堅固なるひと」、同じく斎藤茂吉の「はにかみ」、近所に住んでいた永井荷風を訪ねた「すがの」、いずれも、いい人間スケッチになっている。
第二部では、鋭い観察眼が、さまざまな対象に光をあてている。
「むしん」は、お金を無心に来て断られ、捨て台詞を残して去った男を、道にまで出て見送る話。無気力な背中の男が、道端でする行動が滑稽かつ哀しい。
「おふゆさんの鯖」には、傷んでいないか心配な魚もあえて食べる女性が出てくる。料理の要点はふたつ、まっとうな味を知ること、腐敗のものや毒のものを知ること。これは、料理以外にも通じそうだ。料理が手早く上手だった生活人としての随筆は多いが「二月の味」もそのひとつ。
2023.10.06(金)
文=由里 幸子(文芸ジャーナリスト)