「風の記憶」は、小さな竜巻に出会った話、「金魚」はおまけにもらった金魚の顚末。竹の生命力に驚く「いのち」、厠(かわや)にいたねずみをちょっとユーモラスに描いた「午前二時」、動物園でオランウータンを愛(め)でた「類人猿」、競馬のトップではなく二番手に共感する「二番手」など、観察対象の多種多様さも、特徴だ。

 自分の知らない表情を撮影してくれた写真家とのやりとりを描いた「知らない顔」、別れた男の欠点と思った部分が、男のその後の成功にむすびついたらと考える「捨てた男のよさ」、次女の寂しさと強さをふりかえった「次女」は、いずれも自分自身と向き合っている。

「杉」は、晩年に全国の樹木や崩れを訪ねた時期のもの。鹿児島県の屋久島の縄文杉を見に行ったのは、七十歳の時だ。「縄文杉は、正直にいうと、ひどくショッキングな姿をしていた」。異様な樹容にも、長ければ七千二百年といわれる樹齢にも圧倒され、「目からも心からもはみ出していて、始末がつかなかった」という。

 山地崩壊を見た「崩れ」という随筆に、同様に自然のエネルギーにおびえたような場面がある。剛毅といってもいい部分をもつ作家も、自らの老いや寿命を無意識に投影するようになったのではないか。

 第三部の「週間日記」は、一九六四年の正月前後のもの。原稿に追われつつ、家事もこなす忙しさが見える。

 人生相談「なやんでいます」への答えは、六十歳ごろのもの。店員がボーナスを無駄遣いするか心配する商店の主婦、太っているのが悩みの十五歳の女の子、ケチな夫に困った妻、夫と同じ会社の女性との交際に悩む妻に答えている。いずれも、質問者へ遠慮なく明快な答えを出している。気力、胆力のほどがうかがえる。

 文庫化にあたっての付記

 幸田文は、父親や経験から会得したものを、いったん体内に取り込んでから言語化している。そのためか、読みながら文章の呼吸のリズムが身体の奥底に共振し、体験を共有するような感覚さえ生まれる。

2023.10.06(金)
文=由里 幸子(文芸ジャーナリスト)