娘が性に関心を持ち始める時機をのがさず、親が肝要なことを伝える。それを「啐啄同時」とは、ぴたりとした表現ではないか。
露伴は猥談の小咄もときどき聞かせた。継母が処女の羞恥心がなくなると心配すると、なまの羞恥心ぐらいあぶないものはない、親の聞かせる猥談ほど大丈夫な猥談は、どこを捜したって無いと切り返した。本質から目をそらさず、「正直な態度でよく見ること」を、後年、今度は文が娘の玉に伝えている。
同じ年の夏には家事の訓練が始まった。
「あとみよそわか」では、まずそうじ道具をきちんと整えるという基本から取り組ませている。「水」では、水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつには水は使えない、と警告する。口だけでなく、自ら掃き掃除や雑巾がけをやってみせる。その身のこなしはすっきりとしていて、娘を感動させるのだ。やらせて見る、やって見せる、も一度やらせて見る。露伴は、そうして教え込んだ。
自分で教えられないときは、「このよがくもん」にあるように、学問にも世俗にも通じた人に、いわゆる社会見学を頼んだ。浅草の盛り場をあちこち歩きまわり、雷おこしの材料は何か、店員の給料はいくらだとか話していくのだ。講談や安来節(やすぎぶし)の舞台まで見た。
「金魚」は、出入りの魚屋さんの包丁さばきを真似して、金魚を料理してしまう話。何事も実行する実践教育が、解剖まがいの行為にまでつながったのかもしれない。
「あしおと」「ふじ」は、女学校時代の話。継母の紹介で入学した女子学院は、木造二階建ての洋館で、白いペンキ塗りに深緑の縁どりがあるしゃれたものだった。ここでの五年間は、文にとって楽園の時期だった。思春期の少女たちの友情や同性へのあこがれ、性の芽生えのようなものが、素直に回想されている。
「申し子」では、汽車の中で知り合った青年に誘われ、暇つぶしに乗客の職業などあてて遊ぶ。最後に互いを当てあうのだが、青年は彼女の正体がいいあてられない。しかし、青年のいった「蓮葉のようでいながら堅苦しく、ちゃんとした家庭のようなくせに野蛮」という印象は、若き日の幸田文の姿をほうふつとさせる。
2023.10.06(金)
文=由里 幸子(文芸ジャーナリスト)