また、娘にカメラを与えて、周囲にある美を見つめるようにしむけたこともある。俳句も写生が大事と教えた。周囲を観察し、物事の本質をみきわめる姿勢を鍛えたのだ。
女学校のころから、文はほとんど家政を代行する。二歳年下の弟は、結核で十九歳で亡くなった。若いほど感染の危険が大きくなる。にもかかわらず文に看病がまかされた。冷たい家庭での、姉弟の交流を、のちに小説「おとうと」として書いている。
文は二十四歳で、文化的な仕事を敬遠して、酒問屋の息子と結婚する。翌年には、娘の玉が生まれる。夫とは心が行き違い、三十三歳のときに離婚。娘を連れて実家にもどったあとは、気難しく怒りっぽい父親の面倒をみるのに追われた。
晩年の露伴は、目が悪く、編集者らが口述筆記をしていた。文は、ふすまをへだてて話を聞いていた。夕食後、機嫌がいいときの露伴は、家族を相手にさまざまな話を興味深く語り、一時期は芭蕉の俳諧集の講義をしたこともある。
太平洋戦争末期。長野県に疎開しているとき、東京・小石川の自宅が戦災で焼失した。戦後は、千葉県の菅野の狭い住宅で、病気の露伴の介護をした。
文の最初の文章は、一九四七年、幸田露伴の八十歳記念号(「芸林閒歩」)のために日常を描いた「雑記」だった。雑誌の発行前に露伴は亡くなり、そのまま追悼号になった。続いて死の前後をつづった文章を発表する。父と娘の間に緊張感がはりつめながら、情愛がほとばしるさまが描かれた。
求めに応じて書いていくうち、父親の生活哲学だけでなく、自分の子供時代の思い出にまで、文章の内容は広がった。さすが露伴の娘と、もちあげられる一方で、悪口がまじるようになった一九五〇年春、人気のまっただなかで、突然、文は筆を断つと宣言し、仕事を連載中のものにしぼってしまう。
数年後に執筆を再開したあとは、芸者置屋に家事手伝いとして住み込んだ経験を生かして書いた小説「流れる」が高く評価され、自分が独自の世界をもつ作家であることを世間に認めさせたのだ。
2023.10.06(金)
文=由里 幸子(文芸ジャーナリスト)