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働く場所を探し求め、別の道を選ぶふたりの少女

 『バカ塗りの娘』における仕事をめぐる描写は、『あしたの少女』と比べるとどこかぼんやりとして見える。両親が指摘するように、美也子は頑なに「漆をやりたい」と言うものの、現実的にどう生活していくつもりなのか、よくわからない。映画のラストも、少々ファンタジーめいている。それでも構わないと思えるのは、この映画が描こうとするのが、美也子がどう生計を立てるかではなく、働くとはどういうことかという問いだからだ。

 しんとした廃校のなかで、美也子はただ黙々と手を動かしつづける。漆を塗り、模様をつけ、何度も器を拭ってはまた漆を塗る。どこまでも続く手作業と、彼女の手が鳴らす軽快な音を聞くうち、仕事とは、必ずしも金を稼ぐことだけを意味するわけではないのだと思えてくる。ただひとつのことに没頭し、手をひたすら動かしつづける。それこそが「働く」ことであり、美也子にとって今何より必要なことなのだ。

 『あしたの少女』と『バカ塗りの娘』。ふたりの若い女性主人公は、自分なりの働く場所を探し求め、まったく別の道をたどる。

 ソヒは、経済社会の檻に閉じ込められ、労働を搾取されたすえに、職を自ら辞めることもできないまま死を選択する。一方美也子は、一度経済的な問題から離れ、がむしゃらにひとつの作業に没頭することで、幸運にも、最後は職を得ることに成功する。

 経済的な要請から逃れることは本当に難しい。それでも、仕事をすることが必ずしも社会や企業の駒になり、奴隷のように縛り付けられるのを意味するのではないと信じたい。働くとは、もっと自由に、自分の信じる道を歩むことであってほしい。ソヒのように、社会のなかでずたずたに痛めつけられる若者を二度と生み出したくない。だからこそ、美也子が沈黙のなかで見つける自分の仕事の行く末を、信じてみたいと私は思う。絶望と怒りを抱えながらも、若者たちが未来へと歩んでいける、かすかな光を見つけたいから。

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Column

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映画ライターの月永理絵さんが、毎回ひとつのテーマを決めて新旧の映画をピックアップ。さまざまな作品を通して、わたしたちが生きる「いま」を見つめます。

2023.09.10(日)
文=月永理絵