この記事の連載
松本隆と歩くぼくの風街 #1
松本隆と歩くぼくの風街 #2
松本隆と歩くぼくの風街 #3
松本隆と歩くぼくの風街 #4
1964年のオリンピックで区画整理に
そして、1949年、松本さんは松本家の長男として生まれ、弟・妹とともに中学生になるまでそこで育つ。しかし、1964年の東京オリンピックに向けて区画整理が行われることになり、立ち退きを余儀なくされてしまう。
「で、霞町へ、いまの西麻布へ引っ越すことになったわけ。そして、土地の半分は『外苑西通り』になり、残り半分はマンションの一部になった。だから、ぼくの幼少期を証明する手がかりは一切残されていないんだ。跡地に建ったマンションさえもこうして壊されてしまうんだから」
![拡張工事が急ピッチで進む、1964年の青山通り ©時事通信フォト](https://crea.ismcdn.jp/mwimgs/b/a/1280wm/img_bafbffb3e1ad7011bf52e40f1c3d47e91224071.jpg)
ぼくらが電車通りを 駆け抜けると
巻きおこるたつまきで
街はぐらぐら
おしゃれな風は花びらひらひら
陽炎の街 まるで花ばたけ
紙芝居屋が店を たたんだあとの
狭い路地裏はヒーローでいっぱい
土埃の風の子たちにゃあ
七つの海も まるで箱庭さ
「花いちもんめ」はっぴいえんど
(作詞:松本隆 作曲:鈴木茂)
![「ぼくの幼少期を証明する手がかりは一切残されていないんだ」](https://crea.ismcdn.jp/mwimgs/8/a/1280wm/img_8aa4a660c0e7734c82cb4282e12a02db312605.jpg)
念のため、大通りから一本入った裏通りを散策してみる。見覚えのあるものはないかと訊くと、松本さんは頭を横に振った。
「青山教会の場所が移動したってことぐらいかな。変わらずにあるのは墓地と、墓地周辺の道。昔は駄菓子屋もあったしおもちゃ屋もあったし、路地裏には紙芝居屋もいた。それから、梅窓院では縁日をよくやっていて。青山って元は門前町だったんだ。青山墓地があるから、お寺もたくさん点在していて。だから、ぼくらにとっては墓地も遊び場。ヒーローごっこも墓地の中でやったりしてたんだ。
![松本さん(中央)と叔母さん(右)。青山の家の庭で。](https://crea.ismcdn.jp/mwimgs/8/d/1280wm/img_8d498724b97df4e3f5da6611f892681a176586.jpg)
でも、あらゆる家をなぎ倒し、片側2車線の道路ができてしまった。都市計画という名の下にね。幼馴染みの家もなくなり、みんな散り散りバラバラ。だから、小学校は近所の青南小学校に通っていたけれど、クラス会には一度も招かれたことがない。親の家や土地を相続することができず、売り払って郊外へ移ってしまった人も多いからね」
松本隆(まつもと・たかし)
1970年にロックバンド「はっぴいえんど」のドラマー兼作詞家としてデビュー。解散後は専業作詞家に。手がけた作品は2,000曲以上にもおよぶ。
![](https://crea.ismcdn.jp/common/images/blank.gif)
2023.07.16(日)
文=辛島いづみ
撮影=平松市聖