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 「ねえ、ぼくの"風街"めぐりをしてみない?」――松本隆さんがあるとき言った。作詞家・松本隆さんの「風街」とは、松本さんの頭の中に存在する街だ。しかし、その「風街」は松本さんの人生と創作活動に深く結びついている。「松本隆と歩くぼくの風街」では、松本さんとともに「風街」を巡る旅に出かけ、その足跡をたどっていく。

「ここじゃないどこかへ行かなくちゃ」

 松本さんの「風街」は、東京から始まる。青山南町の生家跡地を訪れると、そこには古びたマンションが立っていた。

「青山って元は門前町だったんだ。青山墓地があるから、お寺もたくさん点在していて。だから、ぼくらにとっては墓地も遊び場。ヒーローごっこも墓地の中でやったりしてたんだ」と松本さんは懐かしそうに語る。

 しかし、1964年の東京オリンピックに向けて区画整理が行われ、松本さんの幼少期の思い出の場所は姿を消してしまった。「都市計画という名の下にね。幼馴染みの家もなくなり、みんな散り散りバラバラ」と当時を振り返る。

 「風街」の旅は、青山から渋谷、六本木へと続く。松本さんは、はっぴいえんどのメンバーとの出会いや、筒美京平さんとの思い出を語り始める。

「京平さんは、いま何が流行っているのか、どういう音楽が若者たちに人気があるのか、そういったことにすごく敏感だったし、アンテナをものすごく張っていた」

 そして、松本さんの「風街」は東京を離れ、湘南へと広がっていく。

 「ぼくの湘南通いは高校生の頃から始まっている。時代でいえば60年代半ば」と松本さんは語る。葉山の森戸海岸、一色海岸、そして横須賀市の秋谷海岸。これらの場所は、松本さんの数々の名曲の舞台となった。

 「マイアミ午前5時」の舞台が実は葉山御用邸前の三叉路だったことや、「スタンダード・ナンバー」と「メイン・テーマ」が秋谷海岸の駐車場をイメージして書かれたことなど、次々と創作風景を明かす。

 2012年、63歳になる年に松本さんは神戸に移住する。

 「2011年3月に東日本大震災が起こって、2012年1月には親友の川勝(正幸・編集者)くんが亡くなった。それで、ぼくの中の何かが決壊してしまったんだと思う。ここじゃないどこかへ行かなくちゃって」と松本さんは当時を振り返る。

 神戸での生活は、松本さんに新たな「風街」をもたらした。

 トアロードを中心に、松本さんは「食いしん坊ネットワーク」を広げていく。「その街の胃袋を知れば、その街の形を知ることになり、その街で生きるための術も身につく。食べることは生きることだから」と松本さんは語る。

 御影の「ブーランジェリー ビアンヴニュ」のオーナーシェフ大下尚志さん、トアロードの帽子専門店「マキシン」の柳憲司さん、ジャズ喫茶「木馬」のマスター小西武志さん、「杏杏」の呉杏芳さんら、松本さんは次々と新しい友人を得る。

 「神戸の友だちって、仕事やお金じゃないんだ。純粋な親切、純粋な友情。そういうことって、ぼくは初めて感じたんだ」と松本さんは神戸での人間関係を語る。

 松本さん隆の「風街」は、今も広がり続けている。

» 【#1】松本隆と歩くぼくの風街「ねえ、ぼくの“風街”めぐりをしてみない?」
» 【#2】「アルバム3枚分くらいが、はっぴいえんどはちょうどよかった」松本隆と巡る青山、六本木…“聖地”巡礼
» 【#3】1969年冬。松本隆が語る大瀧詠一に託した歌詞のこと「永島慎二の漫画が畳の上に転がってたんだ」
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» 【#6】「これは初めてのネタばらし」松本隆が“風街さんぽ”で明かした松田聖子「マイアミ午前5時」の“舞台”
» 【#7】「コーヒーとパフェを食べたいな」喫茶店好きの松本隆が30分並んだ“鎌倉パフェ”の味
» 【#8】松本隆を63歳で神戸に“おひとりさま移住”させたもの「最初は料理教室に通ったりもしたんだよ(笑)」
» 【#9】「大下さんのパンは“普通”なのがいい」松本隆がカンを頼りに作った神戸“食いしん坊ネットワーク”
» 【#10】「神戸の友だちって、仕事やお金じゃないんだ」松本隆が63歳でおひとりさま移住して感じた“初めて”の純粋な友情

松本隆(まつもと・たかし)

1970年にロックバンド「はっぴいえんど」のドラマー兼作詞家としてデビュー。解散後は専業作詞家に。手がけた作品は2,100曲以上にもおよぶ。

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2025.04.08(火)
文=CREA編集部