『座席ナンバー7Aの恐怖』(セバスチャン・フィツェック)
『座席ナンバー7Aの恐怖』(セバスチャン・フィツェック)

 ミステリ作家とは読者を騙すことを生き甲斐としている人々だが、中でも、一作の中で一度騙すだけでは満足できず、これでもかとばかりに多重どんでん返しを仕掛けてくるタイプの作家がいる。文春文庫から邦訳が出ている海外作家なら、アメリカのジェフリー・ディーヴァーがその代表だ。

 ならば、ドイツから一人選ぶなら誰になるか――というと、やはりセバスチャン・フィツェックしかいないだろう。本書『座席ナンバー7Aの恐怖』(原題Flugangst 7A、二○一七年。文藝春秋から二○一九年三月に単行本として邦訳)は、そんな彼の作風を存分に味わえる小説だ。

 主人公である精神科医マッツ・クリューガーは、極端な飛行機恐怖症だ。そんな彼がベルリン行きの旅客機に乗り込んだのは、出産を控えた娘のネレに会うためだった。ところが、機が上空に達した時、マッツの携帯電話に何者かからネレを誘拐したというメッセージが……。その人物は、娘を助けたければ飛行機を落とせと脅迫する。墜落の手段は、精神科医であるマッツでなければ不可能なものだった。一方、ベルリンではネレが暴力を振るう元彼から逃れて出産のためタクシーに乗り込んだのも束の間、運転手に監禁されてしまう。その男の目的は何なのか?

 このように導入部を紹介するだけでも、読者の興味を惹きつけるには充分だろう。しかも機内には、四年前に死んだ筈のマッツの妻そっくりの出で立ちの女が出没するのだ。果たして何が起きているのか、気にならない読者はいない筈だ。そこに、読者の胸倉を掴んで引きずり回すような多重どんでん返しが襲いかかる。章の終わりには必ずと言っていいほど、不穏な記述が待ち受けている。ようやく結末まで到達した時、読者は自分がヘトヘトになっていることに気づくに違いない。

 主人公も読者もここまで翻弄しなければ気が済まないセバスチャン・フィツェックとは、どんな作家なのだろうか。著者は一九七一年にベルリンで生まれ、テレビ・ラジオ局でディレクターや放送作家として早くから活躍していた。二○○六年、『治療島』で小説家としてデビューする。この作品の主人公は、愛娘の失踪以降、小さな島の別荘に引きこもっている精神科医のヴィクトル・ラーレンツだ。そんな彼のもとに、アンナ・シュピーゲルと名乗る女がやってくる。彼女は、自分が書いた小説の登場人物につきまとわれているという妄想を語り、治療を求めるのだが……。異常心理や我が子をめぐるトラウマ等々、著者の作品を特徴づける要素が、既にこのデビュー作から見受けられる。

2023.05.04(木)
文=千街 晶之(ミステリ評論家)