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 15歳で仏門に入り、朝から晩まで掃除と修行の日々を過ごし、28歳で最も苛烈な修行といわれる「千日回峰行」に挑んだ光永圓道。地球1周分に相当する約4万キロメートルを7年かけて徒歩で巡礼し、9日間にわたって断食・断水・不眠・不臥で不動明王を念じる千日回峰行は、平安時代から1000年以上続く、命がけの難行苦行の修行です。

 『比叡山大阿闍梨 心を掃除する』は、光永圓道大阿闍梨が天台仏教、そして荒行で体得した「良く生きるための気づき」を、掃除という万人共通の生活行動を通して説く、唯一無二の人生哲学書です。

 やらされるのではなくやる、身の回りを整理することで心を切り替える、まずは美しい所作から身につけるなど、心が整い、今日より明日をよりよく生きるためのヒントを同書より紹介します。(全2回の2回目。前篇を読む)


同じ24時間、できることは多かったり少なかったり

 時計の刻み方で申し上げれば、時間というものは、1日に24 時間と決まっております。この点だけを見れば、先に否定した「時間がない」という言い方にも一理あるように思われますが、いかがでしょうか。現実には、同じ24時間の中で、私たちができることは多かったり、少なかったりするのです。

 千日回峰行の入り口では、計80足の草鞋で百日回峰行を満行しなければならないという決まりがあります。これは簡単ではありません。たとえば梅雨どきに、7里半の巡拝をしたなら、一晩で2、3足の草鞋を履き潰してしまいます。稲わらを編んだ草履は、雨に弱いのです。

 けれど、私たちは80足で百日回峰行を終えなければなりません。それが「与えられた条件」だからです。そのために、行者の歩き方は徐々に変化していきます。回峰行を始めたばかりの頃は、急速に傷んでいく草鞋に焦りますが、次第に長く使えるようになり、最終的には1足で丸3日間も歩き通せるようになりました。

 平等に「与えられた条件」として考えれば、草鞋も時間も大差はないでしょう。一人ひとりに与えられた条件は同じでも、その使い方次第で、成し遂げられる物事の分量が大きく変わってくるのです。

 その意味では、決められた時間を上手く使うために「変化球」を探すのも悪くない気がいたします。

2022.11.25(金)
文=光永圓道