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「かぎられた時間」と「行動の結果」が釣り合わないと感じる方へ

 仏教の根本は不変ですが、時代によって法話の小道具は変化します。お釈迦さまの時代には、テレビもスマートフォンも存在しませんでした。伝教大師さまは現代の掃除機に驚かれるかもしれません。

 小僧として暮らし始めた頃、明王堂のトイレは汲み取り式でした。現在は水洗なので、掃除にかかる時間が大幅に短くなっています。洗濯にしても、洗濯板から2槽式洗濯機に変わり、いつの間にか脱水槽と洗濯槽がひとつになって、いまでは乾燥機能までついています。

 語感に反して、「便利」という感覚は恐ろしいものです。固形石鹸を使って洗濯板で洗う作業を経験した上で、2槽式洗濯機を使えば「便利」だと感じますが、幼い時分から乾燥機能付き洗濯機を使って育ったかたは、そもそも便利という感覚すら持ちません。いまの自分を取り巻いている状況について、感謝の念を抱きにくいのです。

 私はいまでも、市販の固形石鹸であるウタマロ(東邦)を使って、足袋を手洗いしています。しかし、同じやり方を小僧さんにお願いはしません。自分で扱うときは手洗いですが、小僧さんは洗濯機です。

 手洗いと洗濯機というふたつのやり方の間に「貴賤」はないでしょう。私が手洗いする理由は、そのやり方の方が汚れが落ちるからです。それ以上の理由はありません。手洗いをすると、洗濯機以上に「心の垢が落ちる」ということもないでしょう。どんな道具を使うにせよ、掃除は掃除です。

 ひとつ違いがあるとすれば、古い道具や方法を経験しているかどうか。それによって、掃除に対する喜びの幅は違ってくるかもしれません。私は、汲み取り式のトイレや2槽式洗濯機、熊手を使う掃除を「みずからの経験」として知っています。おそらくそれゆえに、水洗式トイレや乾燥機能付きの洗濯機、ブロワーによって効率化された「現在の掃除」にも喜びを感じられるのでしょう。

 いま現在「かぎられた時間」と「行動の結果」が釣り合わないと感じるかたがいるならば、じつは幸せな状況にいらっしゃるのではないでしょうか。

 使っている道具や考え方が古ければ古いほど、効率化を図る余地があります。いまのやり方や道具をすこしずつ新しく変化させていくことで、毎回新たな喜びを得られるのです。

2022.11.25(金)
文=光永圓道