1989年に公開された『魔女の宅急便』は、2つの意味でスタジオジブリの分岐点となった作品だ。

 ひとつめの分岐点は、本作の監督が宮崎駿でない可能性があったこと。当初の予定通り若手監督が作っていたら、スタジオジブリのその後はどうなっていただろうか。そして、ふたつめの分岐点は、本作が大ヒットしなければ、スタジオジブリがここで終わっていた可能性もあったということ。これは大きく言えば日本アニメーション史の分岐点でもあったといえる。

『おジャ魔女どれみ』、『この世界の片隅に』…『魔女の宅急便』の“if”

 スタジオジブリは1985年に設立され、1986年の『天空の城ラピュタ』を経て、1988年に『となりのトトロ』と『火垂るの墓』(高畑勲監督)の2本立てを公開する。『魔女の宅急便』は、『トトロ』制作中に、広告代理店経由で企画を持ち込まれたという。

©1989 角野栄子・Studio Ghibli・N

 企画スタートの時点では宮崎監督はプロデュースにまわり、監督は若手の演出家に託すという予定だった。

 企画の初期に声がかかったのは当時、東映動画(東映アニメーション)に所属していた佐藤順一。しかし、佐藤は諸事情で企画が具体的に動き出す前に離れることになる。当時は、主人公のキキが下宿するパン屋・グーチョキパン店のおかみさん、おソノさんの出産をクライマックスにもってくるというふうに考えていたと、WEBアニメスタイルのインタビュー「佐藤順一の昔から今まで」で答えている。

©1989 角野栄子・Studio Ghibli・N

 その次に監督として白羽の矢が立ったのは片渕須直。片渕は学生時代に宮崎が監督した『名探偵ホームズ』の脚本を手掛け、そこからアニメ業界で本格的に仕事を始めるようになったという経歴の持ち主だ。

 依頼を受けた片渕は、最終的にキキが街に受け入れられるようなエピソードがいると考え、難破した船から人々を救助するエピソードをラストに用意したらどうかと考えたという。

 しかし、このアイデアは宮崎に「この企画は(引用者注:キキの)通過儀礼がすべてなのであり、アクションを伴う事件性は盛り込む必要がない、と」(フリースタイル『終らない物語』片渕須直)ケチョンケチョンに言われたという。

2022.05.13(金)
文=藤津亮太