〈「事実、このずっとあと、最終的に宮崎さんが書くことになったシナリオも、最後はキキが親切な老人との一件で一定の感慨を得るあたりで終わっていて、完成版には存在する飛行船の難破のシーンは入ってなかった。今回はプロデューサーに回るという宮崎さんのスタンスは、そんな感じのところにあった。すごく地味で実直なものを考えていたようだった」(前掲書)〉
ロケハンにも行き、キャラクターデザインなども進めていた片渕だったが、最終的にある主要なスポンサーから「宮崎駿監督作品以外に出資するつもりはない」と申し渡されたことを受け、監督から身を引くことになり、作品には演出補として参加した。
佐藤、片渕ともに当時は30歳前後。佐藤監督は後に『おジャ魔女どれみ』など女児物の中で少女の生活を取り扱っているし、片渕監督もその後、『アリーテ姫』『この世界の片隅に』で人生を自分のものにしていく女性を描いている。そのような感性を内に秘めていたであろう2人のどちらかが、『魔女の宅急便』を監督していたら、どのような作品になっていたであろうか。そしてその映画はヒットしたであろうか。
「宮崎さんもそろそろ終わりだね。興行成績がどんどん下がってるじゃない」
そう、『魔女の宅急便』はジブリ作品初の大ヒット作となったのである。『魔女の宅急便』はいかにしてヒットしたか。
実質的なプロデューサーであったアニメージュ副編集長(当時)の鈴木敏夫は、配給を手掛けた東映の担当者・原田宗親の言葉がきっかけであったと『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』(文春新書)で回想している。
〈「その原田さんが続けて、こう言ったのです。
『宮崎さんもそろそろ終わりだね』
僕がびっくりして『え、どういうことですか?』とたずねると、『いや、だって興行成績がどんどん下がっているじゃない』と言うのです」〉
その厳しい言葉にショックを受けた鈴木は、TV放送のため『風の谷のナウシカ』を購入していた、縁ある日本テレビに相談に赴いた。
同社の出資が決まり、それを受けて鈴木たちは各番組のプロデューサー、ディレクターに挨拶まわりをして、『魔女の宅急便』を取り上げてもらうようアピールをした。スタジオジブリ作品に対する日本テレビのバックアップは、手探りながらこの時から始まったといえる。
最終的に『魔女の宅急便』は配給収入21億5000万円と、現在映画の売上を表す興行収入に換算すると40億円以上のヒットとなった。
『トトロ』と違う『魔女の宅急便』の“マジック”
このヒットを支えたのは女性の観客だった。『宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由』(斉藤守彦、朝日新書)には、宣伝を担当したメイジャーが10代から30代の女性をターゲットに宣伝を行ったと記されており、興味深いデータが載っている。公開初日と2日目に、新宿、渋谷、東銀座の映画館でサンプリングした観客アンケート調査の結果である。
2022.05.13(金)
文=藤津亮太