女なんてメンスがきたら
終わりだよ

――中学校に入ってからは、勉強にスポーツに何でもできたそうですね。

田嶋 中学時代は、私のルネサンスでした。絵でも書道でも作文でも賞をもらって、テニスも沼津市(静岡県)で一番になりました。私のいた合唱団が優勝したこともあります。

 将来の夢は、母の病気のこともあって、お医者さんをしながら小説を書くことでした。でも、そんなときに、尊敬していた先生から「女なんてメンスがきたら終わりだよ」って言われた。

――学校の先生までが、そんなことを言うんですか。女の人は、そうやって翼を折られてきたんですね。

田嶋 結局、女は何者かになってはダメで、限りなく小さくかわいくなくちゃいけない。女の役目は、男の人のしもべになることなんですよ。

 だから、「小さく小さく女になあれ」と育てられる。そうやって親や教師の言葉にがんじがらめにされました。

 でも、そんなこと言ったって、でかいものは小さくならない(笑)。無理に小さくなろうとすると病気になる。

 高校は進学校に行きたかったんですが、進路を決めるころに私の初恋日記が父に見つかってしまった。そしたら、父の目の前で、日記を1枚1枚破って火鉢で燃やさせられました。

こんな色気づいた娘を
男女共学にはやれない

――えっ、自分の手で燃やしたんですか?

田嶋 そうですよ。挙句の果てに、親が学校の先生に相談して、こんな色気づいた娘を男女共学にはやれないというんで、高校は進学校ではない女子高に行かされました。そのとき、私の夢も死んだんですね。

 高校では、図書館に籠って本ばかり読んでました。そこで出会ったのが、社会運動家の神近市子さんや、日本女性で初めて国連代表になった藤田たきさん。神近市子が大杉栄を刺した話なんか痛快でしたね(笑)。

――いわゆる「日陰茶屋事件」ですね。神近から経済的援助を受けていた大杉が、伊藤野枝とも恋愛関係になったことで、神近が大杉を刺して重傷を負わせた。

田嶋 社会主義だなんだと言ったって、すごく女性蔑視じゃないかと共感したんです。神近さんも藤田さんも津田塾卒だったので、私も津田塾に行くことにしました。

――津田塾では、学部から大学院まで9年間過ごしていますが、そのときのことを「暗黒時代」だったと著書で書いていますね。何があったんですか?

田嶋 自分の問題ですね。英文学を研究するようになって、先生に論文を評価されて、それなりに成果をあげてました。でも、もう一つ、研究が自分の肌とぴったりこない。

 卒業論文でD・H・ロレンスを扱ったときも、自分の書いた論文に結論が出なかったんですね。

 提出日前日の夜中まで書けなくて、先生が翌朝、心配して下宿を訪ねてくれました。「賞をもらえる論文なのに結論が出せなくてどうする」って先生をガッカリさせて、ものすごい敗北感。

 大学院に進んでからも、日本で英文学を研究することにどういう意味があるんだろう、と考え込んじゃって。私の内面が、ちっとも研究に直結しなかったんですね。

 結局は、自分の研究対象を女性学的視点で見る勇気がなかったことと、それをするための蓄積が不十分だったということです。だから、ずっと悶々として過ごしてました。

2019.11.25(月)
文=笹山敬輔
写真=白澤 正