46歳のとき母親と
和解できた理由

――先生にとってフェミニズムとの出会いはいつだったんですか?

田嶋 気づかなかっただけで、ほんとは自分の中にあって、生まれてものごころつく前に出会ってたんですよ。自分と出会っていたというと、ちょっと変な言い方になるけど。

 もともと女の人の中に、あるいはすべての人の中にあるものなんですよ。「女らしくしろ」と育てられた子どものころから、人生が理不尽だと感じていたわけだし。

 私の場合、フェミニズムに関する立派な本に惚れ込んでフェミニズムがはじまったわけじゃない。自分で一つずつ闘いながら積み上げていったんです。だから、田嶋陽子流フェミニズムなんですよ。

――大学院を出てからはイギリスにも留学し、英文学者としてご活躍されます。そして46歳のとき、お母さまと和解されたそうですね。きっかけは何ですか?

田嶋 それは、恋愛の終わりですね。留学中に出会ったイギリス人の恋人と10年くらいつきあってました。

 イギリス人だから対等な関係が築けると思ってたんだけど、愛が深まってくると男の人の本音が出てくる。私を支配しようとするわけ。そのとき、デジャヴを感じたんです。

 後で分かったんだけど、彼の私の扱い方が母とそっくりだったんですね。それに気づいたとき、「あっ、これなんだ」と自分を苦しめていたものがわかった。

 それから私は彼に自己主張できるようになって、恋愛も終わりました。そしたら、母に対しても今まで言えなかったことが言えたんです。「お母さん、これは私の問題だから、私に決めさせて」。それが46歳のとき。

――大人になってからも、ずっとお母さまには正面きって反対意見が言えなかったそうですが、なぜ急に言えるようになったんでしょう?

田嶋 私は、子ども時代のトラウマをずっと抱えてたんです。ときどき記憶喪失みたいになることもありました。

 でも、彼との恋愛関係の中で、母との関係を再体験したんでしょうね。その結果、母がこわくなくなった。自分を苦しめていたものが見えるようになった。

 DVを受けた女の人も、それがDVだと自覚しないと、次もまたDVをする男を選ぶでしょう。だから、抑圧に気づいたことで、ようやく母にも自己主張できるようになったんです。

 私は、それまで女の人のことが大嫌いでした。女である自分自身のことが嫌いだったからです。でも、それからは心も体も解放されていきました。

子ども時代の話を
お母さまとすることは?

――ご著書では、「女性たちを縛りつけている抑圧の輪が見えたとき、私は母を許すことができた」と書かれています。その後、お母さまとの関係はどうなりましたか?

田嶋 母も馬鹿ではないですから、2度と私の人生を支配しようとはしませんでした。そしたら、自分一人の世界を見つけるようになって、ほんとにかわいいおばあちゃんになっちゃった(笑)。

 もしかしたら、私を支配することが生きがいだったのかもしれない。

――子ども時代の話をお母さまとすることはありましたか?

田嶋 NHKから「母と娘」をテーマにした番組の取材を申し込まれたことがあるんです。母は出てくれなかったんだけど、私がこういうことを話すねと母に言ったんですよ。

 子どものころ、どれだけ辛かったかってこと。そしたら、母はキョトンとしてるんです。そして、「そうか、おまえがそんなに苦しかったのなら、悪かったね」って言うんですよ。

 母にしてみれば、戦争の後遺症だとか、女としての苦しみだとかをたくさん抱えて、娘の私にあたってただけかもしれないけど、いじめの自覚はないんですよね。だから、母を責める気にはならないんです。

――失礼ですが、お母さまはご存命ですか?

田嶋 いいえ。92歳で亡くなりました。

2019.11.25(月)
文=笹山敬輔
写真=白澤 正