ミュージシャンとしてのみならず、幅広いジャンルで活躍してきた近田春夫さんが、半世紀を超えるそのキャリアにおいて親交を重ね、交遊してきた錚々たる女性たちとトークを繰り広げる対談シリーズがスタート。

 最初にお迎えしたゲストは、日本を代表する芸能プロダクション、ワタナベエンターテインメントを率いる代表取締役社長の渡辺ミキさん。戦後の芸能ビジネスのシステムを一から築き上げた渡辺晋・美佐夫妻の間に生まれた彼女は、いかにして王朝を継承し、さらなる発展をもたらしてきたのか。第2回では、若き日の知られざる苦闘について明かす。


「中学で演劇部に入り、自分の立脚点を見つけられた」(渡辺)

近田 ミキちゃんはさ、やっぱり、学校はどこかしらの名門私立にでも行ってたの?

渡辺 幼稚園からずっと、日本女子大の附属に通ってたんです。

近田 はいはい、いわゆるポンジョね。

渡辺 その進路をめぐっては、両親の間に意見の相違があったんです。母の美佐は、自らの母校である日本女子大に附属の幼稚園から入れて、そのままエスカレーター式に内部進学させようとしていたんですが、父は父で、小学校は区立がいいという考えを持っていました。特別な教育を受けさせるよりも、いろんなタイプの子どもたちに揉まれながら、たくましく育ってほしいと思っていたらしくって。

近田 結局、美佐さんの意見が通ったってわけだ。

渡辺 日本女子大って、附属小学校の段階から音楽教育に力を入れてるんです。中学校なんて、ヴァイオリンが必修科目なんですよ。そして、シューマンの『流浪の民』とか、ヘンデルのハレルヤ・コーラスとか、当たり前のように三部合唱させられる。

近田 うわあ、そりゃ本格的だね。

渡辺 自分に自信を持つことができなかった暗い小学校時代を経て、私は、中学校入学後に、演劇部に入るんです。最初は裏方の音響効果係になったんですが、そこから、キャストやスタッフさんといったパート全体を見渡すことで、ここには社会の縮図があると理解できたんです。一つの演劇を作り上げる楽しさが分かった。そして、自分の生きている意味、人生の立脚点を見つけた気がしました。

近田 演劇部への参加が、まさに転機だったわけだね。

渡辺 さらに、それまでは、授業を受ける意味も摑みかねていたんだけど、演劇を始めてからは、勉強にも関心を抱くことができるようになった。戯曲を読み解く上で、国語と社会の知識が必要になったから、その2科目を習うのがすごく楽しくなって。まあ、その一方、理数系は苦手なままだったけど(笑)。

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