27年半ぶりの両賞ともに受賞作なしが大きなニュースとなった、2025年7月の第173回芥川賞・直木賞。この産みの親である菊池寛の生涯を、作家・門井慶喜さんは『文豪、社長になる』で綴りました。

 『真珠夫人』をはじめとするベストセラー作家であり、天才プロデューサーでもあった菊池寛の多彩な姿、菊池寛と直木三十五の関係、秋元康さんが寄せた文庫解説など、文庫化を記念して門井さんに話を聞きました。

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――7月16日に行われた第173回芥川賞直木賞の選考では、両賞ともに該当作なしということが話題になりました。

門井:はい、僕もニュースを見てびっくりしました。芥川賞・直木賞ともに受賞作なしは、27年半ぶりでした。

――門井さんは、この両賞の創設者である菊池寛を描いた、小説『文豪、社長になる』の文庫版を2025年7月に上梓されたところですが、その菊池寛について追う中で、賞のことは色々とお調べになったと思います。

門井:そうですね。菊池寛が芥川賞・直木賞を制定したのは戦前の昭和10年です。直接のきっかけは、その前の年に直木三十五が亡くなったことなんです。直木三十五は、今ではなかなか読者が少なくなりましたが、当時の大花形大衆作家でした。

 彼は、脳の病気で入院して亡くなってしまうのですけれど、その時には、今日の直木先生の体温は何度だった、というようなことがラジオで流されるぐらいの人気だったんです。

――その日の体調までレポートされる作家さんというのは、昨今考えにくいですよね。

門井:直木は菊池寛の盟友でもありました。当時はもう、菊池寛の文藝春秋という会社は大きな雑誌社だったんですけれど、文藝春秋の発行する雑誌にも色々書いてもらっていた。その直木三十五が亡くなって、彼を顕彰する賞を作ろう、という風に思いついた。順番から言うと、それが最初だと思うんです。

――なるほど。芥川龍之介よりも前に、まず直木さんだったわけですかね。

門井:ただ、直木三十五は大衆作家ですから、それとは別に、もっと一般文芸、今日で言うと純文学に近いニュアンスの方でもやっぱり賞を出したい、という風に思った。じゃあ誰の名前を冠しようかっていう風に考えた時に、芥川龍之介だったんだろうと。

 芥川龍之介というのは、その8年ぐらい前の昭和2年に亡くなっていますので、直接のきっかけとは言えないとは思うんですけれども、その時に、じゃあ芥川と直木の名前を記念して賞を作ろう、ということで、賞が昭和10年に発足した。これが歴史的な経緯です。

2025.08.21(木)
文=門井慶喜