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性的に“教育”される前作、自ら“冒険に繰り出す”今作のちがい
不感症の原因は、日常と非日常が混じり合うホテル暮らしのせいだろうか。つねに清潔に整えられ、外部から完全に切り離された高級ホテルは、穏やかな音楽と空気に満ちた空間であり、汚れたもの、未知のものは徹底して排除される。これほど均質で不変の場所に居続けるうち、あらゆる刺激に無感覚になったとしてもおかしくはない。
とはいえ、ホテルはひとつの象徴にすぎない。現代の資本主義社会では、あらゆるものが商品化され、どこへ行っても同じような景色ばかりが溢れている。そんな場所で、新しい何かに驚いたり、未知のものに出会うのはあまりに難しい。自分自身の欲望と感じたもの自体が、実はすでに社会によって用意されたものであると、誰もが心の底では気づいている。
失われた欲望を取り戻そうとするように、エマニュエル・アルノーは、貪欲にセックスの機会に飛びつくが、それらはポルノ映画や三文小説のストーリーのように陳腐なものでしかない。飛行機で出会ったゆきずりの男と。不倫関係にある男女二人組と。アジア人のコールガールと。安っぽい快楽に自ら身を委ねていく姿に、彼女の人物像をどう捉えていいか、戸惑う人がいても無理はない。
でも、それこそがこの映画の挑戦だ。ひとりの女性が欲するものの正体を見せるのではなく、欲望の探求の過程を見せること。そのための装置として、ここには閉じられた扉がいくつも登場する。飛行機のトイレやホテルの部屋、庭の片隅にある寂れた小屋の扉は、どれもかたく閉じられ、さあ中を覗いてごらんと誘惑する。閉じられた扉が開くまでの刹那、好奇心と欲望が最大化する。
エマニュエル・アルノーは、自らの欲望を刺激するものを求めてやまない。ただし、彼女が望むのは性の探求とはまた違う。大事なのは、何か未知のものに触れたい、こことは別の何かを目撃したいという好奇心だ。未知の快楽に導いてくれる人がいなくても、性の手ほどきをしてくれる人がいなくても、彼女はたったひとりで冒険へとくりだせる。怪しい秘密に満ちた部屋も、決して開かない扉も、ある意味では彼女の想像力の産物だ。
たとえ扉が開いた瞬間に失望するだけだとしても、そこに広がる風景が結局はどこかで見たような陳腐なものだったとしても、欲望の渦の中へと、彼女は臆することなく飛び込んでいく。実際にそこに何があるかは重要ではない。未知のものへと向かっていく大胆さと、扉を開ける勇気。それこそ、私たちにいま必要なものかもしれない。
『エマニュエル』
2025年1月10日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国にて公開
https://gaga.ne.jp/emmanuelle/
Column
映画とわたしの「生き方」
日々激変する世界のなかで、わたしたちは今、どう生きていくのか。どんな生き方がありうるのか。映画ライターの月永理絵さんが、毎月公開される新作映画を通じて、さまざまに変化していく、わたしたちの「生き方」を見つめていきます。
2024.12.28(土)
文=月永理絵