日本社会には、様々なスポーツや文化的な活動、休日の旅行や楽しいアクティビティなど、子どもの成長に大きな影響を与え得る多種多様な「体験」を、「したいと思えば自由にできる(させてもらえる)子どもたち」と、「したいと思ってもできない(させてもらえない)子どもたち」がいる。そこには明らかに大きな「格差」がある。
この「格差」に焦点を当てた『体験格差』(講談社現代新書/今井悠介著)より、一部を抜粋し、紹介する(前後編の後編/前編はこちらから)。
研究でわかった、「体験格差」が子どもから奪うもの
子どもの頃に家庭が貧困に陥り、体験格差の渦中に身を置かざるを得なかった松本さんは、それでも自分の興味関心を追い求めることをあきらめなかった。
彼は強い。同じ境遇に置かれた子どもたちの多くは、彼と同じようにはふるまえないだろう。それは誰にも責められないはずだ。だからこそ、子ども時代の彼のがんばりや姿勢に学びつつ、そのエピソードを一つの美談として消費するだけではいけないと思う。
改めて子ども自身の目線から「体験格差」を考えると、親の努力の大小にかかわらず、自分では変えられない「生まれ」に子どもたちが放置されているという社会的な構図が、より一層クリアに見えてくる。そして、その放置は世代を超えて繰り返されている。今の親たちも、かつてはみな子どもだったのだ。
では、松本さんのように、「体験」への十分な機会が得られなかった子どもたちからは、そうでない子どもたちに比べて、相対的に何が奪われていると言えるだろうか。
「体験」から得られるその時々の楽しさの格差、ほかの子どもたちにできていることが自分にはできないという相対的な剥奪感に加えて、子どもたちの将来、中長期的な成長に関わる様々な影響が予想される。
まず指摘したいのが、「体験」の有無による、子どもたちが社会情動的スキル(Social and Emotional Skills)を伸ばす機会への影響だ。認知能力(スキル)との対比で非認知能力(スキル)とも呼ばれる社会情動的スキルは、例えば忍耐力、自尊心、社交性などを含み、池迫浩子(いけさこひろこ)氏と宮本晃司(みやもとこうじ)氏によるOECDのワーキングペーパーでは次のように定義されている。
(a)一貫した思考・感情・行動のパターンに発現し、(b)学校教育またはインフォーマルな学習によって発達させることができ、(c)個人の一生を通じて社会・経済的成果に重要な影響を与えるような個人の能力
同ワーキングペーパーは、社会情動的スキルに「目標を達成する力」「他者と協働する力」「情動を制御する力」が含まれるとし、部活動や放課後プログラムなどの課外活動、地域でのボランティア活動や野外冒険プログラムへの参加が、これらのスキルを伸ばすのに有益であると示す国際的なエビデンスも列挙している。
例えば、米国における研究は、音楽のレッスン、ダンスのレッスン、舞台芸術活動、芸術のレッスン、スポーツ、放課後のクラブに参加する小学生は、こうした活動に参加していない者に比べ、より高い注意力、秩序、柔軟性、課題に対する粘り強さ、学習における自主性、学習に対する意欲を見せることを示している。
日本国内については相対的に研究の蓄積が少ない。文部科学省による調査があり、小学生の頃に自然体験や文化的体験などを多くしている子どものほうが、そうでない子どもに比べて、中学生や高校生になった時点での自尊感情が高い傾向が示されているが、必ずしも因果関係を示したものではない点に留意が必要だ。
こうした社会情動的スキルへの影響に加えて、様々な「体験」の有無を含めた子どもたちを取り巻く環境は、かれら自身の将来に対する意欲や価値観のあり方をもいつの間にか規定していく可能性がある。
本がたくさんある家庭で育った子どもが本好きになりやすいこと、音楽を聴くことや楽器の演奏が好きな家庭で育った子どもが音楽を身近に感じやすいこと、こうした形での親から子どもに対する有形・無形の影響を「文化資本」の相続と捉える見方があるが、こうした点にも「体験」の有無は関わっているだろう。
親世代から子世代へと「体験」の格差が連鎖している可能性については、全国調査の分析においても、インタビューの中でもたびたび触れてきた。
最後に、「体験」の場が家庭や学校での関係性だけではない、色々な他者とのつながりを育む機会であるという点にも注目したい。
2024.04.18(木)
文=今井悠介