1938(昭和13)年5月、淡谷は歌手生活10周年のコンサートを開催する。軍部から質素なステージにするよう指示されたが、無視してステージいっぱいに花を飾り、ジャズ、ブルース、シャンソン、タンゴを歌いまくった。
翌日、警察に呼び出された淡谷は始末書を書かされる。その後、敗戦までに50枚近く始末書を書くことになったという。
なお、10周年コンサートの前月、淡谷は一人娘の奈々子を出産している。父親が誰かは明らかにされていない。相手は中国への赴任が決まっていた男だった。淡谷と一夜を過ごした後、男は中国で死去する。淡谷の妊娠がわかったのは男の訃報が届いた後だった。
きらびやかな格好を「贅沢は敵だ!」と責められても…
淡谷のトレードマークだったのが、派手なメイクとファッションである。デビューした頃からマニキュアもマスカラもつけまつ毛も香水もアイシャドウも愛用していた。「贅沢は敵だ!」と叫ぶ愛国婦人会に槍玉にあげられたとき、「これはわたしの戦闘準備なのよ」とやり返したエピソードはよく知られている。
憲兵に服装を注意されたときは「こんなつまらないことを、兵隊さんがいつまでもグダグダ言っていたんじゃ、戦争に敗けてしまいますよ」と言い放って相手を激昂させた。自分を貫き通すのも命がけである。
国内では米英の音楽の演奏が一切禁止されたが、上海の海軍を慰問したときはリクエストに応えてタンゴやシャンソンを歌いまくった。最後に「別れのブルース」を歌うと兵士たちは涙を流して聴き入り、黙認するためそっと席を外した将校は廊下で泣いていた。
九州の特攻基地を慰問したときは、まだ少年のような特攻隊員たちの前で歌った。命令が出るとただちに出撃しなければいけない若者たちは、歌の途中で一人一人敬礼をして去っていく。その姿を見て、淡谷は涙が止まらなくなったという。『ブギウギ』第66話は、この二つのエピソードを混ぜたものだ。
2024.02.12(月)
文=大山くまお