「淡谷さん以外の誰が、この日本でブルースを歌えるのか」服部良一との出会いと「別れのブルース」

 1936(昭和11)年、淡谷はコロムビアの専属作曲家となった服部良一と出会う。翌年リリースされたのが「別れのブルース」である。

 ブルースを「魂のすすり泣き」だと捉えていた服部は、悲しい歌が好きな日本人のためのブルースを完成させたいと考えていた。そこで白羽の矢が立ったのが淡谷である。

 ソプラノの淡谷は音が低すぎると難色を示したが、服部は「ブルースはソプラノもアルトもないんだ。魂の声なんだ」「淡谷さん以外の誰が、この日本でブルースを歌えるのか」と迫り、淡谷も承諾した。

 完成したレコードは1937(昭和12)年7月に発売されたが、ちょうど盧溝橋事件が起きて日中戦争が勃発したタイミングであり、時局にそぐわないため宣伝もほとんど行われなかった。

 

 当初はまるで売れなかったが、満州で大流行した後、日本でも爆発的なヒットを記録。続いて発表された「雨のブルース」も大ヒットして、淡谷は「ブルースの女王」の称号を得る。満州や中国の戦場で惨めさに喘いでいた兵士たちは、勇壮な軍歌よりも哀愁のある淡谷のブルースを好んだ。淡谷は自著にこう綴っている。

「歌などというものは、どんなに権力で強制したところで、人人のほんとの心の底にしみ込むものじゃない。みんなが哀しがっているのに、どんな勇ましい調子と歌詞でうたいはやしたって、勇ましくも何ともなりはしない。まして勇ましい軍歌をうたって戦争が勝てるものなら変なものだ」

「淡谷さんは、相手が何だろうがケンカしてきた人です」

「淡谷さんという方は、相手が陸軍だろうが警察だろうが何だろうがケンカしてきた人です。なぜケンカするかというと、女は美しくなけりゃいけない。私の美しくなろうという思いを邪魔するものとは全部ケンカするんですよ」

 こう語ったのは放送作家の永六輔である。永の言葉どおり、淡谷は戦時中であっても自分の我を貫き通した。

2024.02.12(月)
文=大山くまお