●転機となった「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」
――日本では、すぐに音楽活動を始められたのでしょうか?
3カ月間シェアハウスにいるあいだに結果を残そうと思い、いろいろ頑張ったのですが、簡単には見つけられませんでした。それで、英語講師の仕事が決まりかけたとき、友人にパーティに誘われ、そこで知り合った人の紹介で、作曲家のアシスタントの仕事が見つかりました。
でも、決まったのがあまりにギリギリだったので、就労ビザのために一度アメリカに帰りました(笑)。
――そして、12年から音楽活動をされるなか、どのような苦労されたのでしょうか?
いちばん苦労したのは言語の問題でした。当時はそれなりに会話はできたけれど、専門用語やスラングはさっぱり分かりませんでしたから。キャラクターソングの歌録りや譜面の製作といった自分のアシスタントとしての仕事をしつつ、言語の問題をクリアしていかなければいけないので、とにかく日本語から英語に変換する脳が疲れました(笑)。
あと、日本人はハードワーカーなので、スケジュールに関してはかなり大変でした。今思えば、あのときの経験も現在に活かされています。
――ご自身にとって、転機となった作品は?
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」(18年)との出会いです。それまでもいろんな仕事をしてきましたが、自分が音楽でいちばんやりたいことができた作品です。抽象的に言うと、オーケストラで優しく感動する曲を作ることができました。
茅原実里さんのアルバム「NEO FANTASIA」(13年)の最後に収録された「Neverending Dream」のときからお世話になっているプロデューサーの斎藤滋さんが京都アニメーションに売り込んでくれたのですが、この作品で僕の名が世界に知られるようになりましたし、この作品と出会えたから、今の僕がいると思っています。
2023.09.29(金)
文=くれい響