憧れの先輩が「いい時計買って、家族を守っていく覚悟を決める」と言ったら、自分も倣っていい時計を30歳で買う。新人の時「今は仕事を頑張る時期だから、彼女とか少しくらい我慢してもらえば」と言われれば、彼女との旅行を蔑ろにして、仕事の付き合いを優先する。後輩が「あの子可愛いですよね、狙おうかな」と言った女の子を、意識し始める。「向井くん」は、周囲の男性が「これはいいぞ」と薦める欲望を、素直になぞっているのだ。
しかし彼は、ひとりで女性と対峙したときに立ち止まる。周囲の薦める人生ではなく、自分がどういう人生を歩みたいのか、どういうパートナーを求めているのか、そしてどういう家庭生活を送っていきたいのか。言葉にできないのだ。
彼はどんな女性がタイプで、どんな女性と結婚したいのか――自分の欲望を理解することができない。
向井くんが「こっち向いてよ」と言われてしまうワケ
向井くんは、常に漠然とした社会や他人を見つめている。社会や他人が薦めるものを選んできた。それゆえ結婚の時期になっても、ひとりの目の前の女性を見つめることができない。これが恋愛関係にある女性に、「こっち向いてよ、向井くん!」と言われてしまう所以だ。
たとえば向井くんが美和子と付き合っていた10年前、「美和子のこと守るよ」と言った時、「守る? 守るって何?」と返されるエピソードがある。向井くんはその答えを言葉にすることができない。自分がどういうふうに結婚を考えているのか、言葉にしない。だからこそ美和子から、結婚相手として求められないまま、2人の関係は終わる。
彼は女性に気に入られてモテはするけれど、結婚相手として選ばれない。結婚相手として選ぶにしては、自分の思いを、言語化しなさすぎるからだ。
結婚したいのか、したくないのか。結婚するとしたらどんな家庭を作りたいのか。結婚に対してぼんやりとした憧れはあるけれども、自分の欲望を言語化しない向井くん。「令和のこじらせ男子」とでも名付けたい。これが昭和や平成だったら、お見合いや合コンで引く手数多だっただろう。しかし令和は、モテるけど結婚には至らない――自分がどうなりたいか言葉にできない「こじらせ男子」として扱われてしまうのだ。
2023.09.20(水)
文=三宅 香帆