『おもいでがまっている』(清志 まれ)
『おもいでがまっている』(清志 まれ)

小説と音楽で重ねた、人々の記憶

「部屋は見知らぬ誰かに引き継がれ、新しい記憶を積み重ねていく。それってすごく不思議なことだと思ったんです。その時の感覚から、場所や物について、登場人物が異なる物語を語り出すというストーリーが生まれました」

 築三十年のマンションに暮らす老人・忠之。認知症の兆候が認められるが、小学生の孫と、思い出の詰まった部屋で娘の帰りを待っているという。

「実家である団地の一部屋を引き払った時、家族で記念写真を撮ったんです。家具も何もない状態で撮影したのに、部屋でいつか聴こえた音、染み着いた匂い、湿度まで蘇ってきて。場所に宿る記憶があると知りました」

 しかし、市の福祉担当職員として心温まるようなこの話を聞き取った上村深春は、衝撃を受ける。彼は昔、彼女からその部屋を「奪った」人物だったのだ。なぜ老人は幼き深春たちを家から追い出したのか。ある一室を起点に、待ち人を思う登場人物の胸にはそれぞれの思い出が広がっていた――。

〈清志まれ〉は、音楽グループ「いきものがかり」のメンバーである水野良樹さんの筆名。音楽家として活躍する中、今回待望の二冊目を上梓した。

「たくさんの文字を費やすことでしか現れないものを、書き進めながら探るのは、非常に楽しい行為ですね。複数人の視点に立ち、様々な角度から情景を捉えることは、構造を通してメッセージを伝えられる、小説でしか叶いません。他にも、同じ言葉から読み手が違うものを想像していたとしても、物語が成立する点も魅力的です」

 前作で小説と同タイトルの楽曲『幸せのままで、死んでくれ』の作詞作曲、歌まで全て担った清志さん。今回は小説に関連した楽曲制作に際し、詞と歌を俳優・橋本愛さんにオファーした。

「依頼段階で小説は未完成でした。『物語が立ち上る瞬間を共有しませんか』とプロットをお渡ししたんです。誠実に小説と向き合ってくださって、完成した楽曲のタイトル『ただ いま』も橋本さんにつけていただきました。帰宅の挨拶だけでなく、『ただ今』と、現在を大切にするという意味合いも込められています。丁寧に咀嚼していただいたからこそ出てきた言葉で、作中にも用いました。まさに詞全体から、小説に大きな影響を受けています」

2023.05.10(水)
文=「オール讀物」編集部