『巡礼の家』(天童 荒太)
『巡礼の家』(天童 荒太)

 瀬戸内海に面した温暖な気候に恵まれ、三千年の歴史を誇る道後温泉があり、四国最大の都市でもある愛媛県松山市。本書は、松山市にある遍路宿、「さぎのや」を軸に展開する長編小説だ。四国四県に散在する八十八カ所の霊場を訪ね歩く巡礼と巡礼者を遍路(お遍路さん)といい、遍路宿は、遍路をする人が宿泊する宿のことである。

 本書の主人公、雛歩は、まだ十五歳で、中学三年生なのに「帰る場所」をなくしてしまった少女だ。両親と兄の四人で暮らしていたが、事情によって生まれ故郷を離れ、兄とも別れて一人で引き取られた伯父の家をトラブルで飛び出す。裸足で土の道を駆けてけがを負い、雨でずぶ濡れになって朦朧としていたところを、見知らぬ女性に助けられる。〈あなたには、帰る場所がありますか〉。霧の中で女性にそう問われた雛歩にできたのは、わずかに首を横に振ることだけだった。

 疲れ果てた雛歩を助けてくれたのは、遍路宿さぎのやの女将、美燈だった。道後温泉に近い、道後湯之町にあるさぎのやに雛歩は運ばれ、手厚く介抱してもらう。そこはとても独特な、歴史のある遍路宿だった。〈宿ではあるんだけど、家、おうち、ずうっと昔からそう呼んでるのよ〉と言う美燈は、なんと八十代目の女将だという。はるか昔、病に倒れた少彦名命を大国主命が抱き上げて霊泉に運び、休ませた。霊泉を見つけた鷺の生まれ変わりである娘が、小さな庵でお接待をしたのが、さぎのやの始まりなのだという。

 強さと寛容さを併せ持つ女将、美燈。先代女将の孫で、さぎのやで生まれ育った兄妹の飛朗とこまき。その曾祖母で、先々代女将の鷺野まひわ。カリンさん、マリアさん、ショウコさん、イノさんら、個性豊かな従業員たち。〈あんたは、ここに来るために、いままで旅してきたんぞな〉とまひわに言われ、温かく迎え入れられた雛歩は、さぎのやの人々の親切に驚き、おどおどしてしまう。伯父の家では、介護を担う“ヤングケアラー”となって時間と労力を搾取され、学校ではいじめられた。生まれ故郷を離れてからずっとつらいことの連続で、人を信頼できなくなっていたからだ。だが助けられた翌日、女性のお遍路さんの話を聞き、〈ここは、この家は、いつだってあります。だから、お待ちしています〉と、無意識に出た言葉で励ます。さぎのやにいるうちに雛歩の中で生まれた想いが、悲しみを抱えた女性に対して「巡った」のだ。それからの雛歩は、さぎのやで暮らしながら、自分の過去や心の傷と向き合っていく――。

2023.01.02(月)
文=青木 千恵(書評家)