〈うん。日本を訪れて、霊場を回る人たちは、精神的な迷いはあるとしても、物質的には帰る場所があるだろうね。でも世界的に見れば、現実に帰る場所を失った人というのはとても多い……内戦や紛争や貧困や犯罪によって、住む家を失ったり、ふるさとの町や村が破壊されたりした人というのは……日本にいるとわからないけど、本当に多いんだよ〉と、飛朗は雛歩に言う。紛争や犯罪ばかりではない。外からは何事もないように見える「家」や「学校」で虐待や抑圧があれば、そこは「帰る場所」ではなくなるだろう。
〈みんないつも急いでいて、きりきりしてて、頑張ってる。けど、その姿が痛々しいことがある。もちろんいい人も多い、いや、ほとんどいい人だよ。ただ自分たちの暮らしや理想を追うのに精一杯って感じで、とても助け合う雰囲気じゃない。だから巡っていかない、人々の想いも、いいことも、滞って、巡らない……それが、さぎのやの外の世界の普通なんだ。そっち側から見たら、さぎのやは普通じゃない〉とも、飛朗は言う。桃源郷のようなさぎのやもまた、世界の中にあり、ともすれば飲み込まれてしまう。そうならないようにするには、どうすればいいのだろう。
天童荒太さんが小説で描いているのは、歴史の年表に載ることのない、孤独や悲しみを抱えて生きる庶民の物語だ。本書なら、〈年表には載らない人々の悲しみやつらさを受け止めて、女将という存在によって記されつづけてきた庶民の歴史、巡礼者の歴史、と言えるもの〉。上昇志向が強く、歴史の一部になりたい人々よりも、実は庶民のほうがはるかに多いし、そこで織りなされる世界のほうが広く、奥行きは深い。作中の人々はさぎのやに来て疲れた心身を休め、また歩き出す。巡礼者たちと伴走して物語を紡いできた天童さんも、旅の途上にいるのだと思う。
〈さぎのやは、ずっとあります〉と、雛歩が女性のお遍路さんに言ったように、「物語も、ずっとあります」と私は言いたい。
十代の雛歩から、日本が焼け野原になった戦争を経験した先々代女将のまひわまで、本書には、いろんな年代の人々が続々と登場する。遍路宿がある町を舞台にしているからだ。
どの年代の人も、旅の途上にいる巡礼者なのだろう。この物語を読むと、ひと時心を休められると思う。いつでもどこでもページを開くと、「帰る場所」になる。
2023.01.02(月)
文=青木 千恵(書評家)