父より得意だったのは立板に水のセリフ術であり、この人が初演した「外郎売(ういろううり)」の早口言葉は今日に声優さんの滑舌練習にも使われている。和かみのある芸風でもあったから、上方で流行った心中物を取り込んで『曽根崎心中』の主人公徳兵衛が実は曽我十郎だとする奇妙なドラマ『曽我崎心中』なども上演し、その手の最大のヒット作が「助六」だ。これは京で上演された心中物の主人公助六と揚巻の人物名を拝借して、江戸の吉原に登場する侠客姿の助六が、実は曽我五郎だという寛闊な舞台に仕立て上げたものである。自らもまた上方に赴いて、大坂の舞台で大好評を博したのが今日にもポピュラーな「毛抜」であった。
二代目は七十一で亡くなる年まで舞台に立って、江戸の劇壇に君臨。文才にも恵まれ、台本こそ書かなかったが父と同様に俳諧をよく嗜んで「栢莚(はくえん)」と号し、『老のたのしみ』と題する名随筆を後世に遺した。
二代目には後継ぎの男子がなく、一門の役者から養子をもらって三代目を継がせた上で、後年の舞台では自らの芸名を海老蔵とした。以来、海老蔵は代々の團十郎の後名になったり、前名となっていたりする。
ザコエビ役者と謙遜
将来を見込まれて後を継いだはずの三代目は残念ながら養父より早世し、ここに名跡の断絶する恐れが大いにあったものの、幸い二代目の生存中に四代目を継いだのは二代目松本幸四郎という中堅俳優だった。この人は二代目の姪で養女の婿に当たり、当時から二代目のご落胤だという説がささやかれていたが、容姿は全く似ておらず、大柄で面長な悪役にふさわしい怖面だったようである。
また二代目のように出て来ただけで舞台がぱあっと華やぐことはない地味な芸風で、襲名当初の人気は今一だったけれど、後年はシリアスなドラマで優れた演技力を発揮する名優と高く評価された。ことに見かけは悪人でも魂は善良な「実悪」と呼ばれる演技が得意で、今日に上演する「寺子屋」の松王丸や「景清」の演出は彼にまで遡るとされている。
自ら「修行講」という一種の演技演出研究会を主宰して積極的に後進の指導にも努め、そこから中村仲蔵のような次代を担う名優が誕生した。四代目の実子が五代目になるが、この親子の数奇な人生については先に挙げた拙著『仲蔵狂乱』の中で詳しく触れている。
五代目は十円切手にもなった有名な写楽の大首絵でご存じの方も多いと思うが、この絵は「市川鰕蔵」とされて「海老蔵」ではないことにお気づきだろうか? これは本人が海老蔵を名乗るのはおこがましいようなザコエビ役者だと謙遜して「鰕」の字を使ったのだといい、俳号も祖父「栢莚」の音に倣いながら自分は人より劣るというつもりで「白猿」と称していた。
2022.11.21(月)
文=松井 今朝子