コロナの問題だけではなく、それ以外の場面でも説得力や責任感が全面にあらわれているような発言は、なかなかどの政治家の口からも出てこない。でも、それが悪いことだと思ったのではありません。そもそも日本の学校教育では弁証という表現法をほとんど教えていませんからね。今までそのスキルの必然性を問われてこなかったからなのでしょう。
はっきりと人前で自分の考えを言語化したり、批判し合うのが馴染めないこの国の国民の性質を慮れば、日本は何か独自でありながらも世界にも理解してもらえる、日本独自の民主政治をあらためて考えていくべきなのかもしれない、などということを感じました。
真の民主主義とはどんなもの?
斎藤 日本の民主主義って結局、「投票権が与えられていること」なんですよね。それは戦後、近隣の中国や韓国、北朝鮮における独裁政権の存在が影響していると思います。「彼らと違い、自分たちには自由な投票権がある。だから民主主義なんだ」と国民の多くが誤解してしまった。本当の民主主義は単に投票するだけじゃなくて、意見が違う人と議論し、ときにはデモや集会で意見を政府に表明し、ぶつかり合いながら落とし所を見つける制度です。
僕がドイツに留学中の2011年3月、東日本大震災が起きると、福島第一原発の事故はドイツでも大きな関心を集めました。10万人規模の原発反対デモが連日行われ、政府を動かし、6月には国内すべての原発が停止された。デモに参加したのは、ベビーカーを押して子どもを連れているような普通のお父さん、お母さんです。デモの後にはカフェで議論したり、勉強会を行ったりも盛んだった。そうやって社会を動かすんだという感覚が、当たり前に根付いているんです。
海賊や先住民の間には民主主義があった
ヤマザキ オリンピックの組織委員会会長だった森喜朗元首相が、会議で「(女性は)わきまえて」と発言したことが起因で辞任することになりましたが、女性に限らず日本では「わきまえる」ことが常に求められる空気があります。空気を読む、というのもそうだと思うのですが、とにかく言語に置き換えるかわりに、悟ったり察したりしなければならないことだらけなんですよ。
2021.04.25(日)
文=大越裕