なぜ浜崎あゆみやEXILEではなかったのか

 本来、ヤンキー文化の文脈であれば、浜崎あゆみの圧倒的な共感力や、EXILEに象徴される「ファミリー(仲間)の絆」のほうが親和性が高いはずです。2000年代以降に台頭した「マイルドヤンキー」たちは、何よりも地元愛や横の繋がりを重んじてきました。慣れ親しんだ友人や家族と、内向きの絆を育み、平穏な連帯の中に安住する。それがベースにあるはずです。

 それでも、なぜ『ラヴ上等』はglobeを選んだのか。

 それは、globeの音楽が本質的に「個」、そして「都市」に向けられているからです。あゆやEXILEの楽曲が「(絶望的な孤独でも)君は一人じゃない」と温かな手を差し伸べるのに対し、globeのサウンドには、多人数で肩を組むことを拒絶するような、どこか突き放したような冷たさがあります。

 それは「孤独であることは、都会という風景の一部に過ぎない」という、あまりにもドライで、それゆえに自由な肯定です。

 仲間とつるんでいても、ふとした瞬間に感じる「自分だけが独りぼっち」という感覚。『ラヴ上等』が描いたのは、マイルドな連帯の中に埋没できない、剥き出しの個人が誰かを愛そうとする時のヒリヒリした葛藤、制御不能な感情でした。

 『ラヴ上等』の出演者たちが直面するのは、集団の中にいても消えない「個の強さ」や「世間と分かち合えない弱さ」です。マイルドな絆では埋められないその心の穴に、globeの静謐で透明な、キンと冷えたサウンドが見事にフィットしてしまったのです。

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