ミュージシャンとしてのみならず、幅広いジャンルで活躍してきた近田春夫さんが、半世紀を超えるそのキャリアにおいて親交を重ね、交遊してきた錚々たる女性たちとトークを繰り広げる対談シリーズ「おんな友達との会話」。

 3人目のゲストは、昭和・平成・令和を貫き、音楽評論家として第一線で活躍を続ける湯川れい子さん。昨年、BABYMETALをめぐるX(旧ツイッター)への投稿で話題を呼んだ湯川・近田の両名は、実は半世紀以上も前から縁のある仲であった。


「私のキャリアで一番重要なラジオは『全米トップ40』」(湯川)

近田 僕が湯川さんの存在に初めて触れたのは、ラジオを通してなんです。小学6年生ぐらいの頃だったから、あれは1962年ぐらいのことですかね。ラジオだから、もちろんお顔も知らず、何と素敵な声の方なんだろうとお慕い申し上げておりました。

湯川 ありがとうございます。どんな番組だったのかしら。

近田 恐らく、ラジオ関東(現・ラジオ日本)の番組だったんじゃないかと。

湯川 じゃあ、「リクエスト・オン・パレード」だったと思いますね。ラジオ関東を皮切りに、他の局でも、立て続けにレギュラー番組が始まったんですよ。

近田 特に印象に残ってるのが、ニッポン放送の「サテライトで会いましょう」。西銀座デパートのガラス張りのスタジオから生放送してましたよね。あの頃の数寄屋橋といえば、湯川さんのラジオ番組と、愛国党の赤尾敏の街頭演説が二大名物だった(笑)。赤尾敏、妙なユーモアがあって、憎めないんですよね。

湯川 はい。私もよく覚えています。私のキャリアにとって一番重要なラジオ番組は、1972年からスタートしたラジオ関東の「全米トップ40」でした。14年にわたって続きましたからね。

近田 ミュージックビデオ、当初はプロモーションビデオと言いましたけど、ああいった映像が登場するまでは、ラジオの役割が大きかった。

湯川 そうですね。各放送局にはレコード室という場所がありまして、ある時期まで、通常の番組では、そのレコード室に備えられた曲を流していたんです。それが、60年代初頭から、私や福田一郎さん、それから糸居五郎さんや高崎一郎さんが、個人で持っているレコードを放送局に持ち込んで、自分が自由にしゃべる番組でかけるようになった。そのスタイルを、ディスクジョッキーと呼ぶようになったんですよね。

近田 なるほど。そういう定義があったわけですか。

湯川 ええ。ディレクターが揃えてくれたレコードを流して、台本の通りにしゃべるのはDJではなかった。

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