満月の夜は両親のアンサンブルに耳を傾けた幼少期
近田 湯川さんが生まれたのは1936年。その時、ご両親はおいくつでした?
湯川 父は52歳、母は42歳でした。当時としてはかなりの高齢出産だったから、恥ずかしくってなかなか周りには言えなかったって。
近田 兄弟姉妹は?
湯川 18歳上と15歳上に兄が、12歳上に姉がいました。
近田 家庭環境に、湯川さんの音楽への興味を育む素地はあったんですか。
湯川 ええ。父は尺八の名手だったんです。満月の夜は、目黒にあった家の広い濡れ縁に端然と座って、月を見ながら尺八を吹いてました。その後ろで母がお琴を弾き、さらに、長兄がピアノを合わせていたんです。曲は「六段」や「千鳥」でした。
近田 うわあ、すごくモダンなアンサンブルですね。
湯川 そして、玄関の上がり框(かまち)のところはフローリングになっていて、その隣にあった洋間の蓄音機でレコードをかけながら、父と母はよくチークダンスを踊っていました。幼い私は、その父の足の甲に乗って、太ももに抱きつきながら父のダンスに身をゆだねていたものです。
近田 優雅ですねえ。
湯川 そうそう。それから、私の家では歌会を開いていたんです。
近田 皇室以外にも、歌会を催す家庭があったんですね(笑)。
湯川 4、5歳の時の歌会で、ウグイスは鳴いて血を吐いてかわいそう、みたいな変な歌を作った記憶があります(笑)。
近田 ずいぶんと大人びた歌を詠んでいたものですね。
湯川 そして、私は8歳の時に父を亡くすんです。実は、父は山本五十六さんとは義理の従兄弟の関係に当たるんですが、1943年に五十六さんの乗った軍用機が米軍機に撃墜されて命を落とした際、「これで日本も終わりだ」と言っていたそうです。その翌年、父自身も肺炎にかかって、3日ほどでコロッと亡くなってしまいました。
近田 まさに、日本の敗色が濃厚になってくる頃合い。
湯川 その後、兄2人が出征していたことから女だけの所帯となっていた私たちは、父の郷里である米沢に疎開します。1945年の4月には、長兄がフィリピンのルソン島で戦死したことを知らされました。そして、終戦から2年後、母と姉と私は、焼け残った目黒の家へと戻るんです。私は小学校の5年生でした。
近田 目黒のご自宅というのは、どのあたりにあったんですか。
湯川 駒沢オリンピック公園の向かいにある現在の東京医療センター、かつての国立東京第二病院の近くですね。自由通りからちょっと入ったところにありました。当時は、木々が生い茂る丘陵地帯でしたね。今じゃ想像もできませんけど。
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- 文=下井草 秀
写真=平松市聖 - keyword
