それぞれの悩みがある
じゃあ名題下から入った人は、何に悩むかということですが、まず主演なんて絶対できないということは最初からわかっているから悩まない。しいて言うなら、あの人やこの人より自分の役が悪い。同年代や後輩のほうがいい役だから気に入らない。そういう単純な嫉妬の類でしょうか。名題下の悩みはそういうことだと思います。
だから御曹司の「主役を勝ち取るための葛藤とか努力」に比べれば、腰元のセリフが一個多いとか少ないとかの争いは小さく聞こえるかもしれませんが、それは本人たちにとっては切実な悩みです。出番が少ない、セリフが少ない、それなのに仕事が多い。それは覚悟していたことだと思うのですが、そういうことが重なったときに「どうせ名題下だから」と不貞腐れてしまう人もいるということです。
こういうふうに、一般家庭から名題下に入ってくる人たちと、御曹司と、次元は違うかもしれないけれど、悩みはそれぞれある。だから比べようがないんです。それぞれの苦労というのがありますから。
いつかは見せ場がある役をとか、いつかは歌舞伎座でいい役をやりたいと思って養成所に入ってくる人はいない、という話はしましたが、歌舞伎の立廻りが好きで、立廻りを極めたいと思うがために、名題披露しない方もいらっしゃいます。なぜなら名題昇進して披露をすると、立廻りに出られなくなってしまうからです。だから世間的には、誰もが看板俳優を目指して研修生になっているのではないし、歌舞伎のシステム上、そういうことにはなれないし、それをわかってやっている人が大多数なのです。だから「梨園の外の人はみんなかわいそうに」という風潮があったとしたら、それは違いますと言いたいです。
普通だったら「ありえない」
それから『国宝』を観て、15歳やそこらの少年が、大名跡の部屋子になって、大きな役をやる。そんなのありえない、という方もいると思います。でも今回、私の半生を振り返ってみて、そういえば幹部さんの床几を出していたけれど、数年後に床几を出してもらう側になったとか、トンボを返っていた花四天だった私が、その真ん中で踊っていた方の役をさせていただけるようになったなとか。そういう「ありえない」ことが起こっているとわかりました。だから、こんなことありえない、という人は間違っていません。確かに、普通だったら「ありえない」のですから。
もしも、15歳ぐらいの中学生の子が「いつか歌舞伎座の真ん中に立ちたいという夢があるんですが、叶いますか?」と聞いてきたら、私は「限りなくゼロに近いけど、もしかしたらあるかもね」と答えます。「もし限りなくゼロに近いんだったらやりません。諦めます」って言うんだったら、それでいいと思います。言ってあげたほうがいいと思う。そんなこと言うと、歌舞伎役者を目指してくれる子が減ってしまうかもしれないけど。「でも雪之丞さんは実現しましたよね」って言われても、それは例外だからと説明します。世間から見れば、そんなことってあるのって思われるけど、それは私がすごいとかでは全くなくて、師匠と出会えたことがすごいという話なんですから。
私たちは藁にもすがる思いで、どんな手法を使ってでも出世しようと思ったことなど一度たりとてありません。旦那が引き上げてくれたから、それだけなのです。出世なんかできない、いい役なんてできないという前提ですから。
部屋子から主役へという流れは雪之丞さんと重なると言われますし、境遇としてはすごく似ているところはありますが、そういうところが異なります。










