「あの女方はすごくリアルでした」

 シーンでいうと、冒頭の雪の中で散る永瀬正敏さんもかっこよかったです。ああいう映像美にこだわっていたところも、この映画が観客の心を掴む要因のひとつだなと。あと万菊さんを演じた田中泯さんはすごかった。ああいう女方、いると思いました。昔の大御所の女方を彷彿とさせる感じ。あの女方はすごくリアルでした。

 あとは寺島しのぶさんが演じた俊坊のお母さん、丹波屋の女将さんも真に迫るものがありました。なぜって、俊坊は喜久雄と出会ったときには、もう親子で『連獅子』を踊っていて、これからどんどん芸を磨いて丹波屋の跡取りとして順調に育っていたわけです。それなのに喜久雄が登場することによって、それがある意味壊されていく。母親としての理屈、歌舞伎の家の女将さんとしての描かれ方は納得できますし、実際にそういう立場である寺島さんが演じることで余計にリアルさが増していました。

 私も女将さんと同じで、なぜだろうと思ったのは、俊坊と喜久雄の芸立ちの差があまりないのに、なぜ喜久雄を選んだのか、ということです。息子を鼓舞するために、切磋琢磨するために引き上げたのかと思いましたが、大事な名前まで継がせてしまうのですから、そういうことではなかった。よっぽど、俊坊にはないものを喜久雄が持っていたのでしょうか。戦前は、芸の存続を重視していたので、「俺の芸を継がせるのにふさわしいのはこいつだ」と、実子ではなく弟子筋から指名したということが多かったようですが、昭和の半二郎さんもそういう意思があったということなのか、少し考えさせられました。でも母親の立場で考えると、あまりにも残酷です。

 最後、喜久雄が人間国宝になったときはどういう思いだったのかな、とは考えました。最後に踊ったのは『鷺娘』ですけど、『鷺娘』は、人間に恋をしてしまった鷺の精が、女の恨み心、甘く楽しい恋の喜び、そして苦しさや葛藤がまず踊りによって表現されます。でも人間と動物が恋に落ちるのは許されないし、恋を貫き添い遂げようとすれば、畜生道に落ちるのは必定で、閻魔大王や鬼たちの地獄の責め苦が待っている、そういう踊りなので。

 喜久雄は結局いろんな人に助けられてきたし、女性だって踏み台にしてきた。それで「自責の念」に駆られたりしたのかなとか、『鷺娘』と重ねるとそういう思いはあります。

 テーマとして、単純に御曹司と血のない人の格差の話を書き上げたかったのか、人間の機微みたいなものを描きたかったかが、私にはまだちょっとわかっていませんが、これだけ社会的影響力を与えているわけですから、単純に格差社会を書いた作品ではないと思うので、小説を読んだりしてそこを探りたいと思います。

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