上大岡 コロナ前は、山口に住む私が仕事の出張がてら、1か月に一度くらい実家に様子を見に行っていました。ところが、コロナ禍で半年会えない間に、パーキンソン病を患う父に認知症の症状が出始めて。

 母は母で身体機能も衰えてきたことから、やがて食事も作れなくなって、ソファやベッドでごろごろする日々を過ごしていました。母が歩行困難になったときに、かかりつけ医の先生からとうとう「もうおふたりだけの生活は難しいでしょうね」と言われたんです。

 実際、父が自宅で意識を失って倒れたこともありました。そのときは姉が帰省中だったので、すぐさま救急車を呼んで事なきを得ましたが、その後も食事中に意識を失ったり、家の中で転倒したりすることがしばしば。ケアマネさんから連絡をいただいて、肝を冷やしたことが何度もありました。さらに、母は「骨盤臓器脱」を患って、ほぼ寝たきりの状態になってしまって。

「もう限界」と悟った瞬間

――そんななかで「親フィルター」がはずれたきっかけは?

上大岡 最初はフルで介護サービスを受けて、在宅介護でなんとかできると考えていたんです。月~金までヘルパーさんに来てもらい、毎日何度か両親を見てもらえるようなシフトを組みました。

 ほかにも訪問診療や万が一のときに備えて24時間対応の訪問看護を利用したり。平日は介護サービスにおまかせして、土日は姉と私が交代で横浜の実家へ通っていました。

 でも、休みなしで回し続けなければいけない状況が続くうちに、このままでは共倒れになってしまうと感じ始めて、老人ホームを探そうという決断に至った、という流れです。かかりつけ医の先生に「おふたりだけの生活は厳しい」と言われてから3か月も経っていませんでした。

――お姉さまとの役割分担はどのように決められたのですか?

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